そらいろキップ
汽車に乗り 眠り続ける少年の知らない
記憶の底の底の世界樹が
すべての、真実。
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日本人からはみえない、あるいはみようとしない死と隣のあわせの美しい楽園のような島で息子の幻影を追う母親の姿に、目にはみえない友人が嵐の夜に玄関先に訪れたり、部屋の中を漂っていたり、その姿を確認したくて彷徨っていたあの感覚がよみがってきて、とても切ない。 映像の静と動の不思議な極端なつなぎ方。 映像と音のわずかなズレと、映像に重ねられた波の音に揺すぶられているうちに、母親になる前に息子を失ってしまった人(女性)の姿がみえてきて、さらに切ない。 『トイレのピエタ』をみていない事がとても悔やまれる。
ひそかに楽しみにしている事があって、いつか君が人形になる呪いをかけられたら、君を僕は鞄につめて呪いがとけるまで旅に出るつもり。 鞄というピンホールカメラで世界をみせてあげるよ。
香港の民主主義、民主的な選挙を求めるデモ隊の人達や学生を友達のような親しさで撮影された陳梓桓(チャン・ジーウン)監督『乱世備忘─僕らの雨傘運動』には「撮影の対象となる人達と同じ視線を持ちながら、今はどのような状況なのか外側から分析する視点」という記録映画にとても大切な要素がある。 学生運動を題材とした映画といえば小川紳介監督、小川プロダクションの三里塚闘争シリーズや土本典昭監督『パルチザン前史』は好きな映画だけど学生運動に対してどこか怖い物を感じてしまう。 『乱世備忘─僕らの雨傘運動』がそれを感じさせないのは撮影された人達の語りには思想の押しつけのような物がなくて、ひとりひとりが疑問に思い、いまはどのような状況なのかを考えて、いつまでも自由に意見を出しあえる雰囲気があるから。 陳梓桓監督はここに共感して撮りたかったのだと思う。
白石和彌監督、井上淳一脚本『止められるか、俺たちを』舞台挨拶に行く事はできないけど、初日の朝一番でみてきました。 僕の中で芸術に熱気と猥雑さが存在した1960年代への憧れは強い。 永島慎二さんの『フーテン』の世界に憧れていたので『止められるか、俺たちを』の若松プロに集う人達の姿には胸が熱くなります。 現在も映画の世界で活躍されている人達が実名で登場する。あの伝説的な人(というか怖そうな人)の若い頃の姿に目が点になり大笑い。そして、映画や社会に対するひたむきさに泣けてくる。 芸術を表現する人が政治的な事を言うと安易に「芸術に政治を持ち込むな」とウザい事を言われてしまう今の時代には、本当、こういう映画が必要なんだと思います。 気持ちのいい映画の爆弾のような映画です。 『止められるか、俺たちを』は映像のしっとり感が魅力的。 夕暮れの後の夜がやってくる木陰の薄暗さとバイクの質感や、夜のプールの水面の透明感や色遣い。デジタルでもこんな表現ができるんだーと発見の連続。 あと「映画にメガネ男子が出るとテンションがあがる」という方は必見。いろんなタイプのメガネ男子が出る。 歌うオバケ(きゃー!)も素敵だけど、Wけんじにやられた。 映画をみていると60年代のアングラ界隈の交流関係がみえてきて興味深い。
ロバート・フラハティ監督/共同監督フランシス・フラハティ モニカ・フラハティ『モアナ 南海の歓喜』。 ある年、山形国際ドキュメンタリー映画祭に参加する事になったけれど、記録映画とは、どんな物なのかさっぱりわからない。 その時にみせてもらったロバート・フラハティ監督『極北のナヌーク』や『アラン』、小川紳介監督、小川プロダクション『ニッポン国古屋敷村』『1000年刻みの日時計 牧野村物語』。 木造の校舎や公民館で16mmの映写機の音ととともに記録映画のフィルムは廻っていた。 あの時以来、ロバート・フラハティ監督と小川紳介監督、小川プロダクションの存在は山のように大きい。 未見だった『モアナ 南海の歓喜』デジタル技術で修復された本作は、昔の映画。無声映画はボロボロの雨(縦の傷)が入った映画という思い込みを根底から覆す。 可燃性のフィルムでなければ表現できない美しい白黒の粒子が、空、海原、大自然となりスクリーンによみがえり、よみがえった人達は親しい友人に微笑むように100年後の観客に語りかけてくる。 時々、ぎこちなく感じる映像の動きは撮影者の身体感覚を感じさせて未知の映像体験へと導いていく。 おなじ土地で暮らしを共にする事で生まれる記録映画。 子供の思い出話をフラハティ監督達が面白がり、それを再現したと思われる場面を含めて『モアナ 南海の歓喜』には、撮影の対象となる人達と撮影者達が共に映画を作る喜び、記録映画を演出する幸福感があった。 フラハティ監督の映画をみてしまうと、記録映画に演出(やらせ)がある事が非難されるたびに「記録映画に対する考え方が100年ほど遅れているのでないか?」と思ったりする。 フラハティ監督の映画の遺伝子は現在にも受け継がれていてる。 『モアナ 南海の歓喜』や『極北のナヌーク』『アラン』は異なる時間で撮影された場面が映像を編集する事により、おなじ時間、おなじ場所で起きた出来事のように感じさせる。 本多猪四郎監督がフラハティ監督の映画が好きだったという話を思うと、『ゴジラ』をはじめとした、異なる空間で撮影された怪獣と人間がおなじ空間にいるように感じる、あの編集がフラハティ監督の編集と重なる。 そして『モスラ』のインファント島はポリネシアで、あの舞踊の原型は『モアナ 南海の歓喜』にあるのではないかと夢想したりする。
ベトナム戦争に反対して平和を求める学生達が自分達とは異なる意見を述べたり、異なる行動をとる人物を徹底的に糾弾し、時には暴力で制裁する。 この暴力はどこからやってくるのか?。 はじめは高い理想を掲げていた人達が閉ざされた世界へと追いやられ、恐怖に支配される。 恐怖に支配された人達が、それが正しい事だと思い込み暴力で制裁し、さらに追いやられる事になり、衰弱していく姿に圧倒されて、映画をみている間、何度も何度も姿勢をなおしました。 戦後生まれの学生達の行動が彼らの両親、祖父母が経験した恐怖政治の時代に重なってくる。 代島治彦監督『三里塚のイカロス』をみた時にも思ったのですが、暴力はいつの時代も誰の心の中にも存在しているのかもしれない。 衰弱している人達はこの状況から救われたかったのかもしれない。 その救いとなるのが、矛盾を言いあてた少年の発言と、もうひとつの暴力だった。 山荘に立て籠もる人達に鉄球や放水で攻撃する事は、もうひとつの閉ざされた世界では正しい事だったんでしょうね。 それにしてもタモト清嵐に萌えてくるのは何故ー?。白石和彌監督『止められるか、俺たちを』がますます楽しみになってきた!。
60年前の映画とは思えない4K修復版の美しさに「え、嘘!」驚きの声をあげた。 小津安二郎監督『東京暮色』。 そして「もしかして、この構図がペドロ・コスタ監督に影響していて、もしかしてアキ・カウリスマキ監督も入っているような気が…キャー!」映画の筋とは関係ない所で妄想が爆発していく。 小津さんの映画は昭和レトロな町並みや看板好きにはたまらない場面が続き、俳優の動きと物の配置の絶妙さに「あ!」と驚かされる。 たいめいけんの初代、茂出木心護著『洋食や』に小津安二郎監督の映画で居酒屋でお燗が提供される間について書いてあるけど、それを読んだおかげで、何故あの場面がぬる燗(たぶんもっとぬるめ)なのか、想像できた。 鰻屋の客席の間仕切りのデザインと画面に占める割合の大胆さ、卓上の徳利…すべての物が数ミリ単位で配置され、そして、俳優はスクリーンの観客に語りかけ、突然、感情を爆発させたかと思うと、突然、泣いて肩を震わせる背後へと場面が切りかわり、まるで、自分が追い詰めたかのような罪悪感がやってくる。 その突然、爆発する感情の原因は「日本の家族はこうで無ければならない」という、家族制度の重圧にあるのだけれど、それから逃げだしたはずなのに、とけない呪いのように再び重圧へと帰ってしまうから怖い。 もう、山田五十鈴のあの場面には泣かされました。
長い昼寝の後の夕暮れ時にでかけた映画館で夜になり、三宅唱監督『きみの鳥はうたえる』に出会った瞬間に映画の世界と繋がった幸せな感覚に包まれる。 この映画にその事を感じるのは、純粋にいい映画を作ろうとしている人達の存在。映画の中で生きている人達と夜と明け方の闇と光、町の表情の豊かさは、本当に作りたい映画を作ったジョン・カサヴェテス監督に通じていて、映画が終わってしまう事が大切な友達とのさよならにも似ている。
貨物列車の見送りに出遅れて駅舎の時計がかすんでよくみえないでいると いつか川底よりひきあげてきた 長椅子に横たわる彼が昔の話 僕の寝床に関わる を言い当てはじめたので 消えてしまった時計を後にして 先住民の煙草をくゆらせながら 子供が住む軒下の水たまりへと むかった 夜空の満月は代わりに とうの昔に忘れられて捨てられた人達で溢れかえっいるのだけれど とうの昔に存在しなかった事になっています ほら ほら ぼくらの行く手を言いあてるように 罪を暴くように 水たまりの子供たちが 耳元で囁くのは彼が右の耳にネジのピアスをしているからです 真っ黒な軍艦が銀座通りを横切った お祝いの日に ばあやが夜光石のようにみがいてくれた革靴をはいて 大好きな友達と 屋上のライオンをみに行ってきたんだ 長椅子に横たわる彼が はいているのは 光る事を忘れた靴なので 大好きな友達という事になる僕は ライオンへと続く階段に隠れる化石達の捕まえ方を教えてあげたから 記念に写真屋からくすねてきた銀塩のカメラで写真を撮ったよ そうだね 20回 太陽が死んだのなら どのくらい ぼくらが幸せでいられたのか 夜店の灯りを気にしながら聞いてみるつもり
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