そらいろキップ
汽車に乗り 眠り続ける少年の知らない
記憶の底の底の世界樹が
すべての、真実。
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詩人と映画館や美術館の帰りにガス燈の灯る町を夜の果てまでさまよい歩く。 夢物語と思われていた願いがホアン・ヤーリー監督『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』を通してついに叶った。 それまでみてきた、いままでみてきた、これから作り出そうとする芸術について途切れる事なく語り続ける詩人達のとりこになった。 ながいあいだ探し続けていた人達が映画館のスクリーンの向こう側にいた。 台湾の詩人達が日本語を使い。 日本語で思考し日本語の詩を創作する。 僕がふだん使っている日本語と詩人達との日本語の違いはそのまま、言語の快楽へと変貌していく。 このまま永遠に言語の快楽と映画と音楽が出会った奇跡に耽溺していたかった…。 『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』は台湾の歴史を描くと同時に戦前の日本ではどのくらい芸術が豊かであったか、日本を知るうえで貴重な記録映画。 その芸術は戦争で破壊されつくし、台湾は日本の植民地支配から解放される。 植民地支配から解放されたのに漂う喪失感と息苦しさ。 その息苦しさはエドワード・ヤン監督『牯嶺街少年殺人事件』の戦前から台湾に住んでいた人達と戦後に中国からやって来た人達の間にある断絶された関係の萌芽に思えた。
冒頭のきらめきに一気に映画の中に引き込まれた。 ガラスの反射、すりガラスに閉ざされた人影から少女の心を表現する。 その古典的な表現の美しさ。 それは映画館の暗闇にだけ咲く事ができる、いまでは幻の映画の華だった。 少年少女の揺れ動く感情に寄り添う音楽の演奏の時間と場面の切り替わる瞬間が同調するみごとさ。 トム・リン監督の芸術に対する思いに涙が出てきて、映画が終わる瞬間がとてもとても寂しくなった。 できれば一晩中みていたかった…。
年を重ねた方の話には、その何気ない言葉のひとつひとつに、歴史を考える時にとても重要な手がかりが存在している。 『禅と骨』の主人公となるヘンリ・ミトワ氏の生涯は歴史のあの瞬間に立ち会った方だから話せる事がたくさんでてきて、驚きと発見の連続。 そして、国について考えるいい手がかりになりました。
自分が住んでいる日本はどんな国なんだろう?。 その昔、手がかりを求めていたら薄暗い古本屋でオイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』や岡倉天心『茶の本』と出会った。 必要なのは外側から対象をみる視点で『よそ者の視点』が大切なのではないか?という事に気づいた。 アメリカ人と日本人の間に生まれたヘンリ・ミトワ氏は、どちらの国に住んでも『よそ者』として対応されたけれど、そのぶん国境などというものを軽く越えて、どこにも縛られない芸術を追求する事ができたのではないか?。 映画に出てくる、写真、映画、庭、デッサン、陶芸、茶道、本、家具、電灯…。 ヘンリ・ミトワ氏が暮らしの中で手がけた品物はすべてが、しっかりとした美学に貫かれていて、とても日本的なのに『日本』という国を越えた美しさで映画が宝石箱のようにきらめいている。
無実の罪で30年の間、牢獄にいた女が町を彷徨する。 自分の人生を奪った人間に復讐するために。 その過程で出会った人達に無償の愛情を注いだかと思えば、一瞬のうちに怒りと恨みに狂い、のたうち回る。 ふだんの映画ではあたり前の表現。 人の顔を拡大して撮影するクローズアップが存在しない長廻しの連続の白黒の映画。 観察するように撮影した映画に夢中になり、怒りと恨みに狂い、のたうち回る女の身体の動き、歪んだ形相を凝視すればするほど、目にはみえない感情が存在が心にまとわりつく。 変わらないように思える映画の構図は、ある人の台詞を機に気づくか気づかないほどに変化する。 それは、イングマール・ベルイマン監督の映画に射す光と言葉のような鮮やかさで、人の一生と神の存在を問いかけてくる。 もしかしたら、神が手を差し伸べた事で手にした結末は幸せな事だったのでしょうか?。 ほとんどの映画から神の存在が消え去った現代にラヴ・ディアス監督『立ち去った女』に出会えた事はとても貴重な体験だった。
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