そらいろキップ
汽車に乗り 眠り続ける少年の知らない
記憶の底の底の世界樹が
すべての、真実。
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記録映画とはどんな物なのかよくわからない時に出会った小川紳介監督、小川プロダクションの三里塚闘争の映画、その後の山形で撮られた映画は僕にとって記録映画の教科書的な存在です。 小川紳介監督はレギーナ・ウルヴァー監督『ハレとケ』の中で、話をする人を撮影する時に、その人の姿を全体から撮影を始めて話が核心に迫るにつれてカメラが寄っていく『間』の大切さを語っていました。 代島治彦監督『三里塚のイカロス』には、その『間』が受け継がれている。 映画の中で代島治彦監督がかつて三里塚闘争で闘ってきた人達への声がけは暖かくて、優しい。 そして、核心へと迫っていく。 三里塚で撮影されているので、人間が生活するスレスレの空間を飛行機が飛んでいく。 時々、飛行機の爆音とともに話が中断する。 それは、次の言葉を選ぶ思考の『間』のようにも思える。 その瞬間に、飛行機の姿をおさめたカメラが話し手の顔に寄り、次の瞬間に鋭い証言が発せられた時の『間』の見事さ。 動物的なカメラの美しさ。 撮影の対象となる人達の生活に入り、相手の言葉を預かる覚悟、緊張感の凄さに背筋を伸ばしました。 三里塚闘争の事の発端。 成田空港を作ろうと思った人達は国を発展させるために、良かれと思って計画をたてたと思う。 お百姓さん達はご先祖様から受け継いだ土地を守るために反対した。 そして、全国からお百姓さん達を守るために若者達が集まった。 どの立場の人でも出発点にあるのは『善意』だ。 その『善意』が暴走していった時に、それは『怪物』へと変貌していく。 人は不条理な事が起きると「全体主義」や「独裁国家」と非難する。 それは当然の事だけれど、その非難する人間の側にも「全体主義」や「独裁国家」の萌芽があり、いつか開花する日がくるかもしれない。 『三里塚のイカロス』が辿りついた三里塚闘争が敗北した真実には鳥肌が立った。 この映画は三里塚闘争だけではなく、他の出来事や未来の社会で不条理な出来事が起きた時に、読み解く教科書的な存在になる。 こういう映画を記録映画と呼ぶ。
山形国際ドキュメンタリー映画祭2017 10/8㈰徐辛(シュー・シン)監督『長江の眺め』上映前に『ディスカッション:海外からみた佐藤真』でマーク・ノーネス氏、秋山珠子氏、ジャン・ユンカーマン監督による佐藤真監督が海外に与えた影響について話を聴く機会がありました。 93年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で佐藤真監督と呉文光(ウー・ウェンガン)監督との出会いが中国の記録映画の流れを変える事になった話を聴いた後に徐辛監督『長江の眺め』をみて、監督の質疑応答を聴く事ができた事は中国の記録映画の流れが変わっていく瞬間に出会うようでとても幸運でした。 幻想的で美しい硬質な白黒の映像。 そこに写し出される国に忘れさられた人達が発する言葉は少ないけれど、その服装、日常の仕草、ふるまいでもって、巨大な成長を続ける中国の真の姿を雄弁に語る。 トーキ映画、カラー映画の登場とともに忘れさられた白黒の無声映画がひっそりと進化していて、一気に花が開いた瞬間をみる思いで興奮が止まらなかった。 興奮が止まらなかったのは、映像がとても芸術的なのに、社会をみるまなざしの鋭さ。政治性が両立しているから。 『長江の眺め』の長江の風景は、国民を忘れた国の未来を暗示するようで、この世の果てに連れていかれるような怖い風景に震えあがった。
山形国際ドキュメンタリー映画祭2017 10/8㈰とんがりビル1F KUGURUで開催された『ディスカッション:海外からみた佐藤真』で、マーク・ノーネス氏が佐藤真監督と「方言と方言が生まれた土地の歴史や文化をどう英語字幕で伝えるか?」と試行錯誤した話は、ふだん外国映画をみながら「英語にも訛り(方言)があると思うけど、それを標準語の字幕にするのはどうなんだろう?」なんて思った事があるので、とても興味深い話でした。 僕は山形という土地柄もあってか、お年寄りの話を聞く機会が多い。 おなじ山形県でも地方によって方言が違い、年代によって方言の語彙数が違ったりします。あてずっぽうですが、生活環境の変化とかあるのかも。 お年寄りによっては、ひとつの言葉(本題)にたどり着くまでに、けっこうな時間を要する事があります。 聞く側からすれば「もう少し要点をまとめて…」と思わないでもないけれど、話をする側での頭の中では「一番伝えたい言葉にたどり着くまでに、いろんな思い出が映像となって現れているのだろうな」と考えながら、聞く側も言葉の断片の連続から映像を想像したりします。 その映像に没頭しているうちに、僕(聞く側)はその人の『雰囲気』を記憶しつつ必要な言葉以外は淘汰していたりする。 ぶっちゃけた言い方をすると、聞いても聞かなくても同じ事のような気がしてきて(失礼なやつだなぁー)本題以外の言葉がノイズと化して、その人の目には見えない『雰囲気』の割り合いが多くなっていく。 参考資料として上映された佐藤真監督『阿賀の記憶』の一場面。 新潟県の地元のお年寄りの話が延々と続き、雪道が現れる。 新潟の方言なら何となく、わかるかもしれない。 お年寄りの話に集中して耳をすましているうちに、お年寄りの話にあわせて佐藤真監督がこの雪道の風景の映像を編集している事がわかる。 それは、お年寄りと佐藤真監督達との人間関係から生まれたもので、お年寄りの雰囲気を表現していて、声を代弁している。 ある意味、方言を映像表現に翻訳しているように思えてくる。 「たぶん、この話をしているお年寄りの中では、このような思い出がよみがえっていて、一番言いたいのは『朝鮮人』という言葉で、朝鮮人の人が日本で労働させられた事なんだろうなぁ〜」と考えながらみているうちに『朝鮮人』以外の言葉がノイズと化して雪道に同化していく。 そう感じた瞬間に現れた字幕が「KOREAN」ひとつだけだった!!。 わーすごい!。大当たり!なんかちょうだいじゃなかった。 こんなに省略していいもんなんですか!?。大笑いしながら、どういうわけなのか『イメージの午後 レオ・レオーニ&松岡正剛 間MAの本』(工作舎)が頭にポンと浮かんできた。
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