そらいろキップ
言葉や国は関係なしに
汽車に乗り 眠り続ける少年の知らない
記憶の底の底の世界樹が
すべての、真実。
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昔ながらの映画の表現に心がひかれる事があります。
具体的にではなくて、人間以外の存在を使った比喩的な表現。 たとえばクリント・イーストウッド監督『アメリカン・スナイパー』の「正義を貫き通すためなら、暴力で解決しても良い」と教えられた時期、太陽の光りはどんなふうに、主人公のクリス・カイルを包んでいたのか?。 大人になり、祖国を守るために暴力で解決したクリス・カイルを包んでいたのは、どんな光りだったのか?。 『アメリカン・スナイパー』には、直接的な戦場の場面と、同時に空白が存在していて、そこにあるのは戦争に疲弊したアメリカ国民の姿だった。 「アメリカを守った」という英雄像から遠く離れた映画は、亀井文夫監督『戦ふ兵隊』(1939年)の中国を侵略しているうちに戦争の泥沼へとはまっていき、中国に難民が溢れて、日本兵も疲弊していく姿に重なるものがあります。 戦時中に伝えられた勇ましい報道は偽物で、それに対して亀井文夫監督は現実に起きている真実だけを記録した。 『アメリカン・スナイパー』は真実を描きながら、声高に訴える事なく静かに、囁くように、観客をある方角へと向かわせる。 映画は作り方によっては、人の心をどちらの方角へも煽動していく。 クリント・イーストウッド監督はその事を知り尽くした怖い監督。
映画をみはじめた頃に、黒澤明監督の映画をみないと人生を損してしまうような気がして、福島市の東宝の映画館や東京の文芸坐、並木座にみにいった事がありました。
黒澤明監督の映画に出てくる、太陽のように輝く人達の姿はとても眩しい。 マー・ジーシアン監督『KANO ─カノ─ 1931海の向こうの甲子園』に出てくる人達の姿は、黒澤明監督の映画のように眩しくて、身体の動きの鮮やかさは『七人の侍』のよう。 そして、台詞がひとつひとつ輝いている。あの台詞は土地の成り立ちを肌で感じている人の言葉。 かつての日本映画に宿っていた身体能力がスクリーンいっぱいに駆けまわる。 野球が題材の映画だけれど、ひさしぶりに『ダンス』『舞踏』を感じさせる映画に出会えました。 『KANO ─カノ─ 1931海の向こうの甲子園』好きな要素がぎっしりつまった映画で、雨の降らせ方の美しさ、ひとつの画面の中で、たくさんの雨の表情が存在している。 圧倒的なのが編集で、ジガ・ヴェルトフ 。セルゲイ・エイゼィシュティンのようなかっこよさで、ふだんはだらしないかっこうで映画をみているのに、背筋を伸ばしてみました。 ロ、ロシアアヴァンギャルドが帰ってきた…。 泣きそうになりながら「つ、次の場面は、どんな編集でくるんだろ〜ッ?」。先を考えながらみていたら、すごい!。 あたりまえと言えば、あたりまえなんだけど、場面設定にあわせて編集の間が変化している。キャアーッ!。 映像の躍動感に血が騒いでいるうちに、あっという間に3時間が過ぎていった…。 これぞ映画だ!。 そして右も左もイケメンだらけ。どんぶり飯が5杯はいけそう。
ラース・フォン・トリアー監督『ニンフォマニアックVOL. 1&2』社会の仕組みや宗教について、「本当にこれが正しいのか?」と挑発するように描いてくるんですが、その描き方が、人間という動物が持っている原始的な性衝動と、そこから産まれた芸術について、遊び心と教養に溢れていて、とっても魅力的です。
そこにどっぷり浸かっているうちにみえてくるのは、男社会が作り出す、一方的な性の商品化の滑稽さだったりするから、すごい。 そして性の表現のおおらかさ、なんか、西洋の考え方が浸透する前の、鎖国をしていた日本を連想してしまいます。 映画の中で、ほんの一瞬だけど春画が出てくるので、ラース・フォン・トリアー監督の中で意識するものがあったかも…なんて、勝手に考えてみる。
リチャード・リンクレイター監督『6才のボクが、大人になるまで』。
劇映画と記録映画の境界線は非常に曖昧で、存在するのか疑問なんだけど、ある家族の暮らしを長期間かけて撮られたこの映画は、とっても気持ちのいい記録映画をみた感覚にさせてくれて、映画という概念をこえる魅力を感じさせます。 家族の映画であると同時に、アメリカをうつしだした映画。 アメリカの抱える問題が、そこかしこに散りばめられていて、体制に対する国民の期待が、現在に近づくにつれて希薄なっていくのが印象的。 「何はともあれアメリカの言ってる事が一番」みたいな日本人とえらい違いだにゃなー。 映画という概念をこえる魅力と、矛盾してしまいますが、『6才のボクが、大人になるまで』は、映画の技術が変化していく過程を楽しめる映画でもあります。 そういえば、あの頃はカメラが移動すると、画像がブレる時があったなーなんて懐かしくなりました。 たぶん、よーく聴くと、時代ごとの音響の変化も楽しめると思う〜♪。
リチャード・アイオアディ監督『嗤う分身』は、世界が少しずつズレていく事の面白さを、「も〜やり過ぎよアンタッ!」とツッコミたくなるくらいの演出(ドリフで言えば、金物の洗面器が降ってきますみたいな)に、合成着色料みたいな照明に、画面から少しずつズレていく効果音、ロシアで原作が産まれ、イギリスで撮られた映画なのに、時間も距離も違うのに、「もう1人の自分がいる」という世界に何故か同調する日本の歌謡曲。
いろんな異なる要素をぶちこんだら、どんな映画になるんだろ〜♪♪こういうのを実験映画というのよね。 不条理スリラーというより、不条理ギャグの連発に、映画が終わった後も笑いが止まらない、困った。困った。 いやーね、笑ってたのは僕とおなじ顔の人ですよー!。 題材だけ聞くと、むずかしそうだけど、中2病を患ってると「なーんだ、変なのは僕だけじゃない!」そんな勇気を与えてくれる素敵な映画です笑。
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