そらいろキップ
言葉や国は関係なしに
汽車に乗り 眠り続ける少年の知らない
記憶の底の底の世界樹が
すべての、真実。
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映画が誕生して100年目をむかえた時、映画でやれる事は全部やってしまって、もうやれる事は残っていないんじゃないか?なんて話が出たものでした。
僕は、映画は結局は道具のひとつなんだから、そんなの作る人次第なんじゃないの?と思ってました。それに、山形映画祭には、ふだん観ている映画の概念を壊す映画が次々と上映されていたので、僕にとって、「映画=一番未開の言語」でした。 林海象監督「彌勒 MIROKU」を観て思うは、映画が自由に言葉を表現できる道具(デジタル)を手にいれた喜びそのもので、その昔、映画がスタジオ撮影を飛び出してヌーヴェル・ヴァーグが生まれた時の感覚を感じさせてくれて、映画の初期、現在の考え方とは違った自由さを持ち合わせた映画を感じさせてくれます。 映画の表現が自由になったといえば、もしかして、あの場面は伊藤高志氏の映像でしょうか?かっこいい〜♪。 原作の「彌勒」を書かれた稲垣足穂さんは、随筆を読むと、そうとう映画が好きだったんじゃないかと思う。 足穂さんの美学の要素のひとつには、当時の映画のセットが影響してるんじゃないかと勝手に想像していて、例えば「一千一秒物語」は、喜劇映画の脚本に観えてくる事があります。 人間が宇宙に行ってしまう前の、宇宙に対する想像力の面白さ、もしかしたら、宇宙はハリボテの箱のようなものなんじゃないか?とか、そのハリボテ感の美学が「彌勒 MIROKU」を通してスクリーンで観れる事ができて嬉しいものがあります。 しかも10月25日は足穂さんの命日。たまたまなのか、狙ったのか、不思議な縁を感じます笑。
映画には魂がこもる時や、亡くなった人達の魂を呼び寄せる時があって、リティ・パニュ監督「消えた画 クメール・ルージュの真実」は、まさにその映画で、リティ・パニュ監督の亡くなった家族の思い出、感触そのものが伝わってくる。
ただ、それは、映画を通して触れる事ができるだけで、実際に会う事ができない悲しさ、家族を救えなかった辛さをともなっている。 発端となった「国を良くしよう」「みんな平等になろう」と始まった革命の正体は、それまでの文明を破壊して、原始的な生活への逆戻と、徹底した差別社会だった。 40年近く前の『過去』の『外国』の出来事だけれど、人のする事はいつの時代も変わらなかったりします。 「消えた画 クメール・ルージュの真実」では、それまでの文明を破壊して、会話を禁じ、ペンや紙の所有を禁止して、人が自由に物事を考えようとする事まで、支配しようとしました。 これは、マンガの表現やクラブの営業時間を規制しようとする政策を思い出してしまいます。 国を良くしようとして、時代を逆戻りにしても、よその国は「人民が国を治めよ」うって、話になってるのに、王様が治める事になる国もあったりします。 『過去』の『外国』の出来事でも、自分の住んでる国が、どんな状況なのか考える物差しになったりします。 映画にもてでくるけど、真実を語り継ぐ事の大切さって、こういう所にあるんだと思います。
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