そらいろキップ
言葉や国は関係なしに
汽車に乗り 眠り続ける少年の知らない
記憶の底の底の世界樹が
すべての、真実。
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小林政広監督「日本の悲劇」の感想です。
白黒映画で長廻しの映像。 これだけだと、とても、単調な映像に思えてしまうけど、実際、観てみると、色彩の無い映像では、音はどんなふうに認識されるのか?という実験が展開されていて、役者さんが置かれた状況(心理)にあわせて、閉ざされた空間に、劇場の上下左右から響いてくる音が面白い!。 面白い!と書くような映画ではないのですが。 色彩が無いぶん、音が鋭く響いていてきて、追いつめられた人間が、どう物事を認識するかとことん表現してる。 事件が起きるたびに報道で「異常」「特別」…といった印象が次から次へと植えつけられていくけれど、事の本質、実際はどんな人?という深い所まで降りていくのは、少ない気がする。 「日本の悲劇」は、その深い所に降りていった映画でした。
僕が彼の存在を認めたのは
校庭の隅で 誰にも知られていない ものたちと 口笛混じりに 話す事ができたからで それは 屋上で踏みつけられる背中の暖かさだった はやいうちに 何者かになる前に 僕は破滅するのを望んでいたんだ その やり方は 口笛混じりに隠されているから 僕は 世界中の人間が 彼の事を 忌み嫌う事を願いだしていた 願い続ける傍らで 眠る彼は いつかは消えてしまうのに 安心しきっているから 僕は天にむかって 嗚咽したくなる それ すらも 彼の前では からまわり
ゲンスブールやフランス・ギャルのCDを、これは何年前の音楽で…とか全然意識しないでかけていると、現在も活動してるような気がしてくる。
ピエール=アンリ・サルファティ監督「ノーコメントby ゲンスブール」に出てくる映像は粗い。 ちょっと前の時代だったら、その映像の粗さに時代を感じさせたんだろうけど、加工された映像が溢れかえっている時代に生きてると、時代を感じさせなくなるから、不思議なのと同時に、映像って編集次第で意味が変わってくるのね…と感じさせてもくれます。 社会が必要としている虚像を仕事として、どこまで、実像なのかよくわからないけれど、ゲンスブールの作りあげた虚像(マイナー芸術)は、社会で「あたりまえ」と思ってる事や「禁じられている事」を「本当にそう思ってるのかい?」たえず疑問を投げかけて、「社会が作りあげた虚像」と闘っている姿は時代を感じさせなくて、現在もどこかで生きていて、自分の魅力にとりつかれた人達を、いい意味で、煙に巻いてるような気がしてきます。 僕も煙に巻かれた一人です笑。 Je t'aime moi non plusは歌も好きだけど、映画も素敵よね〜♪。
山形映画祭の楽しみのひとつは、日本でなかなか観る事ができない映画が観れる事で、今年はジャン=ピエール・リモザン監督「YOUNG YAKUZA」。
2007年の山形映画祭で上映された「北野武 神出鬼没」の監督さんで、こちらの映画は蓮實重彦氏が北野武監督に、言葉をかけると、北野武監督が映画について、見えない糸を紡ぐように語り出す、他のインタビューとは違った、会話の面白さゾクゾクしました。 「YOUNG YAKUZA」 はヤクザの世界に入門する20歳のナオキ。親、組員、組長のドキュメンタリー。 映画の中に、ピンとはりつめた空気、組長をはじめとした、組の人達の身のこなし、俊敏さ、黒澤明監督「七人の侍」の侍達の動きの鮮やかさに、通じるものがあります。 その鮮やかさがもっとも表れるのは、組長が先代の組長の形見を説明する時の、形見に触れる時の姿勢、指使い、眼差し、語り。 日々の積み重ねの美学、「仁義」に裏打ちされている、その美学に対する「語り」と「仕草」にカメラが完全に同調している。 同じ言語圏でも難しいのに、何故、違う言語圏でこんな事ができるのか、びっくり。こんなすごい映画が国内初の上映なんてもったいない…。 ドキュメンタリー映画の面白さのひとつは、語り手に同調(共鳴)して、その題材独自のカメラの動きが生まれるところだと思う。例えば、小川さん、小川プロ「辺田部落」の冒頭の村人の語りとカメラのように。 暴力団排除の動きが強くなり、昔のようにいかなくなる時代、暴力団でない人達には、暮らしやすくなるはずなのに、その流れに妙な違和感を覚えるのは何故だろう?。 「親にしてもらえなかった事を、自分が代わりに出来れば」とナオキを受け入れる、組長の姿はどこか孤独で、社会の簡単な線引きだけでは、わからない世界がある事を教えてくれます。 この、孤独感、寂しさ、テキヤさんの世界を記録した木村栄文監督「祭りばやしが聞こえる」を思い出してしまいました…。
山形映画祭インターナショナル・コンペディション「パンク・シンドローム」(監督:ユッカ・カルッカイネン、J-P・パッシ)の感想です。
「パンク・シンドローム」は知的障害を持ったトニ、サミ、ペルティ、カリの4人で構成されたパンクロックバンドのドキュメンタリーです。 ちょっと話はズレてしまいますが、日本の話ですが、知的障害の人達と障害の無い人達、共同の舞踏を何回か観た事があります。 舞踏家の方の方針は、踊りの型を押しつけるのでは無くて、その人が、持っている本来の力(その人が得意とするダンス)を掘り出して、ダンスを作るといったものでした。 「パンク・シンドローム」に出てくる人達が、バンドを始めるきっかけは、「その人がやりたい事をやらせてみよう」という、フィンランドでも少数派の福祉団体の方針が土台にあります。 不思議なもので、同じカメラで同じ題材を撮影しても、撮影者によって、仕上がりが変わってきます。 「パンク・シンドローム」のいい所は「視点の暖かさ」にあると思う。 障害者との境界線を引くきっかけになる、身体の動きや、考え方を、その人の「個性」として接している。 その「個性」が輝く時が演奏している時で、特にライヴをやってる時が素敵、ステージで、この人達があの仕草で爆音鳴らしてたら、飛びはねたくなるのわかるわー!。 福祉とかいろいろ考えさせてくれますが、演奏風景観てるだけでも楽しめます。 爆音上映したら、おもろいやろなー、この映画。
山形映画祭インターナショナル・コンペディション「天からの贈り物 小林村の悲劇」(羅興階/ルオ・シンジェ。王秀齢/ワン・シウリン。共同監督)の感想です。
2009年8月8日に台風と大規模な土砂崩れにより、崩壊した村が復興していく過程を3年に渡り記録した作品。 そこに、村が存在した事が信じられないくらいの巨大な土石流の光景は、そのまま、東日本大震災の津波の被害に通じる物があって、いろいろ思い出してしまいます。 家を失った人達は、仮説住宅からきちんとした住宅が用意されていくけれど、そこには、用意する側の思惑が複雑に絡みあって、村本来の姿からは遠く離れた「箱物」だけが出来上がっていく。 台湾は東日本大震災の時に、ものすごい勢いで日本に対して義援金集めをしてくれた国なので、国内ではこんな問題があるのかと複雑な気持ちになりました。 遠く離れた国で、同じような事がおきている。 思い通りに進まない復興以外にも、災害にあった時に、被災者が「しあわせ過ぎたのかもしれない」とふりかえる時、黒澤明監督「赤ひげ」の地震の場面に重なってきます。 映画の中で小林村の祭りの様子で、車座になり、歌を歌う場面は、日本のご詠歌やアイヌのお祭りと重なってくる。民俗学に詳しかったら、もっと違う視点からも観れそう。 いろいろ重なる場面の多い「小林村」には 「災害が風化されてしまう問題」も取りあげられる。 同じ人物の同じような証言が何回か出てきます。同じ時間だったり、数ヶ月後だったり。 映画の見せ方や尺の問題だけを考えたら切られそうな、その場面は、当事者にとって、災害の記憶は風化しないという訴え、そして、風化してしまう事への抵抗の現れにも思えます。 かつての村の様子、亡くなった人達について、大人だけではなく、子供も含めて自然な表情で語りだします。 「長期間通って相手の信頼を得る」というドキュメンタリーの方法論が、頭に染み込んでいて、すっかり、わかったつもりでいたけれど、それが、具体的にどんな行動か、よくわからなかったりします。 監督さん達に映画について話をお聴きした時の事。 閉店間近の香味庵で監督さん達は、「おやすみなさい」「さようなら」と日本語で笑顔で握手をしてくださった。 映画の中で村の復興がうまくいかないのは、利権優先で動く政府に原因があると徹底批判した監督さんの、笑顔は優しく手は柔らかく、暖かかった。 村人達の表情を自然に撮影できた土台のひとつには、これがあるんだろうなぁ…とハッとしました。 ドキュメンタリーの方法論を理屈だけではなくて、感じる事ができました。 作り手の方に直接お会いして話ができるって、いいもんだな〜。
見えない音楽ばかり増えてゆく
夜の空は 小さな輝く隙間が 散りばめられていて 届かない 扉ばかりで 壁画の晩餐から 何も変わらないで 月だけが 壊れ続けているような 気がしてくる 壊れ続けた 月は錆びた椅子の たもとから 離れられないまま 裸足に ゆっくりと 突き刺さるけれど なんの 足跡ひとつ残らなかった
もうすぐ山形国際ドキュメンタリー映画祭が始まります。
ドキュメンタリー映画というと、難しくて、とっつきにくいという印象がありますが、実際、難しいのもあるけど、劇映画と呼ばれる映画にも難しいものがあります。 多くは日常を、題材にしているから、エイリアンやマフィアが襲ってくる映画に比べたら、身近なジャンルかもしれません。 山形国際ドキュメンタリー祭の特色のひとつは、「ドキュメンタリー映画とは、こういう物だ」という考え方をくつがえす作品を上映しているところです。 個人的には、劇映画の多くが起承転結や約束事を必要とするのに比べて、ドキュメンタリー映画は、作り手にもよるけど、自由奔放にできるような気がします。 もうひとつの特色は、作品を作ったのはいいけれど、国によっては、上映したら体制に睨まれたりしますが、その国の映像作家を支援しているところです。 その国の人達が、日本に来て生き生きと話してる姿は見ているだけで、楽しくなります。 もしかしたら、小さな種蒔きかもしれませんが、遠く離れた国と影響しあってるかと思うとわくわくしてきます。 ふだん、情報の向こう側にいる国の人達の生の姿に出会い、話を聞くと、今、住んでいる社会で、伝えられている事のどれが信用できる情報か、考えるいい機会になります。 ぜひご来場ください。
園子温監督「地獄でなぜ悪い」は「俺はこの映画が好きだーッ!!」走りながら叫びたくなる映画で、笑いまくって、涙が出たまではよかったけど、散り散りになった映画好きの友達を思い出したら、さらに、涙が止まらなくなって、場内から出る時に、恥ずかしかったー。
何かといえば、映画の神様だの、タルコフスキーが降りてきただの思っていると他人事とは思えない、この映画。 映画の神様の1人はタルコフスキーなんだけど、貧乏神も疫病神もいそうな気がしてきた。 出てくる人達の映画バカ度数がすばらしくて、「人のふり見て我がふりなおせ」というより「これに、比べたら俺はまだましだぁ…」と安心できて、さすが、映画は人生の教科書ですね。 ファック・ボンバーズのメンバーの高校生時代の映画バカさが、これまた、素敵。 同じ学校にこんな人がいたら惚れてたろうなぁ…。
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