そらいろキップ
言葉や国は関係なしに
汽車に乗り 眠り続ける少年の知らない
記憶の底の底の世界樹が
すべての、真実。
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自転車で ななめに横切る みどりは空に なりかけだった
手紙は 文字を透かして 透かしてくれる太陽 あのいらつかせる 太陽なんて しばらく見た事がなかったな 文字は 透かして読みおわるまえに 金釦になっちまったから 気晴らしに 彼は ガムをとりだそうとしたけれど ガム 鞄から消えた だから もう 俺たちは 夢みることもできないんだ
幼児の頃、それは秋空のしたの畑。畑の隅っこに便器が置いてある原風景。 高校生の頃、美術の本で便器を芸術作品として展示した前衛芸術家を知った。 ──もしかしたら、あの畑は、畑というのは仮の姿。実は美術館であの便器は芸術作品だったのかもしれない。 あの畑がどこだったのか思い出せないけれど、前衛芸術家は平家の落武者の塚のように、あちこちに芸術作品を展示していた。 例えばこの屋外美術館。名前はわからない。結界に見立てた鎖の向こう側に積み上げれたテレビ。屋外に展示してある故に、電源は入らないものと思われる。 何かというと、情報操作だの公共性がないだの批判されるテレビが電源の入らない状況に置かれいる。そして、かばうように寄り添う洗濯機…。強烈なメッセージ性を感じる作品ですね。 すいません、こんな内容で(苦笑)
本日、──月刊 現代農業2011年9月号 福島県飯舘村の酪農家・長谷川健一さんの話NPO主催の「飯舘村に今も住み続ける酪農家・長谷川健一さんのお話を聞く会」という記事を見つけました。
www.ruralnet.or.jp/gn/201109/iidatemura.htm 飯舘村は東京の二子玉川の復興チャリティーでお酒をちょっと、いただいたりしました。その時に頂いた村を紹介する冊子は、村興しに力をいれた暖かいものでした。 その村で何が起きていたのか、この記事はぜひ読んでください。 「現代農業 飯舘村」か「www.ruralnet.or.jp/gn/201109/iidatemura.htm」で検索すると記事がでてきます。
本当はあまり線引きしたくないんだけど、ドキュメンタリー映画の特徴のひとつは撮影、記録されて、編集された後に上映される映像から「自分の住んでる世界はどうなっているか?」と自分で考えられる所にある。
「ミツバチの羽音と地球の回転」は祝島で28年前から続く原発建設に反対している島民達の記録。 自分達の子供を思い、自然。島、海と共存できる環境を残そうとする島民達の「言葉」漁師の海に対する思いからでる「言葉」。その「言葉」は地にはった竹の根のような力強さ。 島の外からやってくる「このままだと貧乏な暮らしになりますよ」と原発による豊かな暮らしを提案する人々の「言葉」は、なにひとつ心に響かない。 映画には出てこないけれど「原発はみんなが作った」という言葉も、島民達が闘う姿を前にすると、撮影された真実を前すると心に響かない。そのかわりに新たな「真実」が見えてくる。 この「言葉」の重みの違いは何だろう?。 映画の冒頭、島の歴史が語られる。──かつて、この島は国策でミカン畑が作られたけれど、オレンジな輸入自由化により、ミカンが売れなくなり、島は衰退していった。という内容。 国策で大石油コンビナートができる予定だった六ヶ所村と、どこか重なる。 国策が何でもかんでも悪いというつもりはないけど、何故、同じような事が繰り返されるんだろうね?。 鎌仲さんの視線は、ひとつの題材をいろんな方角から見て、映画を観る人々が考えるようなつくりになっている。 誰かに考えを押しつけられるよりも、自分で考えるように作ったほうが効果的。 「自分達の暮らしに本当に必要なものは何だろう?」と考えるいい機会。いろんな人に(子供にも)観てほしい。 8/23(火)フォーラム山形で鎌仲監督のトークが行われました。他の上映会場で「何故、福島の人々の中には避難しない人々もいるの?」という話になり、福島での上映会の時に福島の人々に聞いたそうです。相手は悲しそうな顔をした後「原発が爆発した時は停電していて、テレビが見れなくて爆発したのを知らなかったし、地震直後で、それどころではなかった」「どこへ逃げたらいいかわからない、福島から逃げるのも地獄、福島に残るのも地獄」との事でした…。
教科書で「スターリン」「大粛清」の文字は見た事があっても、何が起きていたか知らなかった(不勉強…)。それが何か教えてくれたのが「戦火のナージャ」の前作にあたる「太陽に灼かれて」だった。
両作品の冒頭に流れる「疲れた太陽」。ユーリ・ノルシュティン監督「話の話」で男達が戦争へ駆り出されていく場面にもかかる曲。この時代に流行っていたのかしら?。 世界が狂い始めて、抑圧されて破滅へと向かうその悪夢的な感覚。 ロシア映画の「フルスタリョフ、車を!」(アレクセイ・ゲルマン監督)「懺悔」(テンギス・アブラッゼ監督)「鏡」(アンドレイ・タルコフスキー監督)に漂うあの悪夢的な感覚は「戦火のナージャ」の始まりから終わりまで覚める事がない。 これはあの時代に国民、芸術を弾圧した存在に対する芸術による報復なのかもしれない。「十二人の怒れる男」の怒りが押さえめに見えるくらい凄まじい怒り。冒頭の小道具の意味合いを考えるだけで、その深さがわかります。作り物とはいえ、これだけの人間が一瞬にして殺されてしまうのかと背筋が寒くなった。 「太陽に灼かれて」から16年。同じ役柄を同じ俳優(!)が演じる。あたり前の話なんですが、映画の時間と同じ時間、歳をとっている。 「太陽に灼かれて」を観た時は「何でそんな事でこんな目にあわされるの?」と怖くなったものでした。 同じ俳優が続編でその後を演じるのは、不条理な狂った世界は、こんなにも長い時間、人間を不幸にすると教えてくれているようです。 昔にくらべて、自由に映画を撮れるようになったロシア映画を観るたびに「タルコフスキーが生きていたら、帰る事ができたかもしれない…」と思います。
ちいさな らっぱのいいわけは おおきならっぱの ほんとうに ひっくり かえされました まんげつ のよるです
だれも すむひとのない あれはてた ばしょに なりひびく えそら みそら な くぐりの らっぱ だれ の こころにも ひびかないことに きづきもしない えそら みそら な くくりの らっぱ ゆめをみるのは すてき な ことです えそら みそら な くるいの らっぱ だれ の こころにも ひびかないことに きづきもしないまま くるいの らっぱが えそら みそら で きえてった
つりあげた 魚は
あらあらしくて 怖くて触れない 僕には だから きみの出番になる ──釣り針の ひとつとれないやつばかり 釣れるなんて 不公平だ きみは かたほほを ふくらませながら つぶやくから 僕は 炭酸をさしだすんだけど 気のぬけかけた 炭酸なんて おいしくも何ともないから 夢でも 覚めたみたいだった その証拠に 僕は 釣り針を とってくれた きみのシャツの香りを あてられないでいる
「核戦争後の地球〜世界の科学者は予見する〜」第1部/地球炎上(1984年8月5日放送60分)第2部/地球凍結(1984年8月6日放送45分)
番組の内容は過去の核実験の記録。核シェルターに人間が長期間滞在した記録に科学者達の意見をもとにして、一度核戦争が起きれば全面核戦争になり、核シェルターに避難した人達がどのような状態で死滅するか、放射能を含んだ灰が地球を多い、気温が下がり地球凍結。生存できるのはゴキブリ、ゾウリムシ…へ至る様子を過剰な演出なしに冷静に描きだす。 正直、見ていてメチャクチャ怖い。 この作品を見て思ったのはアメリカは核戦争に備えて、核シェルターの機能を検証している。日本でも核武装する意見がでますが、核が投下された時をどのくらい想定してるんだろ? 27年前の番組だけど、この時すでに原子炉が核攻撃される危険性を指摘し、アメリカの原子炉を例にとり、核爆弾のみの放射能汚染。原子炉が攻撃された場合の放射能汚染の違いも想定している。 すごい内容です。 話はちょっとズレますが、日本では東電原発の事故は「想定外」と言われてきましたが、昨日(8/14)のNHK ETV特集(この番組の小出五郎氏は同じ人?)では、アメリカの原発の技術者は70年代から、この型の問題点を指摘、事故の起こり方もシュミレーション通り。爆発が起きた瞬間、炉心溶融が起きたと察したそうです。 この違いは何なんでしょうか?日本にも真面目に原子力の研究をされている方もいるのに…。 もし日本が核爆弾を保有して管理を間違えて誤爆したらどうなるんだろ?と考えてしまいました。 ※「核戦争後の地球」はアーカイブスにはないかもです。映像ソフトを扱う図書館とかにあるかも…です。あと相田洋著「ドキュメンタリー私の現場」(NHK出版)に制作過程が載っています。あわせてどうぞ。
震えているの?
怯えているの? でも これが本当の世界 いままでのは まがいものの世界 よく 見ておきなさい 積みあがる 屍を よく 見ておきなさい 屍よりも 高く積みあがる 金貨を よく 見ていたら 屍を減らす事ができるのかもしれない
膝のうえで ひろげた図鑑は 蜂の宇宙
蜂は もうすこしで死んでしまうところだった それを知ったせい? 僕は かたわらの キノ・フユを思った こんなふうに 死んじゃう?あいつも? それなのに 僕の中では 何かが 欠伸をした 眠りを覚ますために それは 蜂の宇宙よりも 暗くて 得体の知れないものだった 僕は ひどく それが怖いから キノ・フユが はやく呼んでくれるように 願っていた キノ・ナツ もう 行くよって そればっかり 願っていた 蜂は小さいクセに 本物の宇宙に つながっているから 怖いんだ 僕は いつまでも クルクルと まわるような感覚を気づかれないように 引力に 逆らうような 歩き方をしていた
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