そらいろキップ

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大林宣彦監督祭り

『この空の花─長岡花火物語』『野のなななのか』の上映会。そして大林宣彦監督と根岸吉太郎監督とのシンポジウム。

8時間近い大林宣彦監督祭りは最高だった…。

しかも大林宣彦監督に直撃してサインまでいただく事ができました。

山形映画祭で鍛えられた映画をみる体力と監督を追っかけるミーハーな情熱はこの日のためだったのね。

子供の頃から憧れていた人に会える日がくるのはとても幸せな事です。

企画された小林みずほさんをはじめ、映像文化創造都市やまがたの方達。市民ボランティアの方達。会場を提供されたフォーラム山形に熱烈感謝です。


大林宣彦監督は日本のCMや自主制作映画の草創期から活動されていた方で、あの時代のギラギラした雰囲気には憧れを感じていました。

1960年代の芸術を武器にした前衛芸術。


映画会社で作られる映画とは異なる場所で詩を綴るように、絵を描くように、個人で映画を作り始めた人達の実験映画や日記映画といわれる作品は、ちょっとやそっとじゃ理解できないけど、そこには個人で映画を作る喜びと、詩や絵画に隠された意味を考えるように映画をみる面白さがありました。


『この空の花─長岡花火物語』。

あの時代のギラギラした前衛芸術の熱量と現在の映像技術を融合させてスクリーンに大輪の花火を打ち上げるような力強い映画です。

記録映画と劇映画、そして実験映画の垣根を自由自在に行き来する。そこには映像表現の無限の可能性がある。

映画って、こんなに自由でいいんだ。もう驚きの連続です。

『野のなななのか』。

ひとつの対象に振り子のように寄っては去っていくカメラと、数秒単位で流星のように降りかかってくる映像と謎だらけの言葉と詩の猛吹雪。中原中也さんの詩が素敵。

めっちゃ前衛なコラージュ感あふれるCG表現にあっけにとられて、最後の最後でその意味がわかった瞬間、芸術の謎を解く面白さが終わってしまう寂しさがやってくる。

ここまで自由に映像を表現できるのは、映画館で映画をみるという事がどういう行為か知り尽していて、観客の映画をみて考える力を信用しているからできるのだと思う。


芸術は遠い遠い過去と現在を結びつける。

小林秀雄さんの中原中也さんの亡骸についての随筆を読んでいたら、どういうわけか中也さんの肌の硬直具合や匂いや身体の冷たさが伝わってきた事があってたけれど『野のなななのか』は中也さんが耳元で囁いてきた、それは快楽に近かった。

大林宣彦監督の映画に身近な存在として幽霊が出てくるけど、本当、あんな感じなのよね〜。


posted by 永島大輔 22:18comments(0)trackbacks(0)pookmark





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