そらいろキップ
言葉や国は関係なしに
汽車に乗り 眠り続ける少年の知らない
記憶の底の底の世界樹が
すべての、真実。
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小栗康平監督『FOUJITA』には、反戦の台詞は何も出てこない。戦争がいつはじまって敗けたのかさえわからない。
確実に伝わるのは芸術の生と死。 芸術が祝祭として迎えられるフランスは 、どんなに夜が暗くても生が満ちあふれていて、人々は自由に話し、踊りだす。 芸術は人間が生きていく糧として機能している。 それに対して帰国した日本に満ちあふれているのは死の世界だった。 みえない鎖で縛られているように歩く死の世界を作りだしている存在のひとつは、芸術。 芸術は殺人を奨励し、人々の精神と肉体を死へとむかわせる。 戦前の日本はモダンだった。 どのくらいモダンだったのか。 例えば溝口健二監督『浪華悲歌』(1936年)のあの都会の服装や建物の内装の美しさ。 美しいものは日本軍に破壊された。徹底的に。それは戦意高揚の役に立たない。 いままでの芸術を捨て戦争画を描く。 それは芸術を死にむかわせる事になり、芸術家の芸術に対する裏切りの行為になっていった。 戦争画に協力した人々の思いはわからない。 単純に正義や悪で片づけられるとも思えない。 言葉であらわせない暗闇の中でたどりついた先は、タルコフスキー監督の精神世界に通じる場所だった。 平面の絵画を撮影しているのに、広大な世界へと誘う映像には、芸術家であることの罪と、裏切りの行為への贖罪が聴くことのできない叫び声がこもっていて涙がとまらなかった。
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