そらいろキップ

言葉や国は関係なしに
汽車に乗り 眠り続ける少年の知らない
記憶の底の底の世界樹が

すべての、真実。




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小川さんの命日。

1992年2月7日に小川紳介さんが亡くなられてから、21年になります。
何かと出遅れる、僕の人生で最大の出遅れ感は小川さんに会えなかった事。
小川さん、小川プロダクションの人達が山形に来なかったら、山形映画祭も無かったかもしれない。出会えた人達にも、出会えなかった事になります。
改めて、小川紳介さん、小川プロダクションの人達、小川さんを山形に呼んだ人、山形映画祭の基礎を作った人達に感謝します。
その昔、東京に引っ越すきっかけは、山形映画祭で東京から来た人達と知り合ったのが始まりでした。

10数年近く山形から離れていると、浦島太郎状態で、無くなるなんて考えもしなかった、風景が無くなっていたりする。
正確な山形の方言も知らないし、伝統料理の作り方もわからない。芋煮が作れるくらい。

あらー、あの時の山形はどこにいったんだろう?と思ってた時に、アテネフランセで「ニッポン国古屋敷村」「1000年刻みの日時計牧野村物語」をひさしぶりに観た時は衝撃的だった。
全然古びる事も無く、「あの時の山形」というか「村」が存在していて、おおらかに笑っていた。
映画を観てるというより、どっかの村にフラフラと散歩に行っている感覚は、他のどの映画から滅多に得られないものだった。
フェリーニ監督の「アマルコルド」もこんな感覚におそわれます。「アマルコルド」最高ですよ「アマルコルド」。

小川さんは、消えていく村の記録を残す大切さを大島渚監督との対談で、おっしゃっていたけど、(『小川紳介映画を穫る』117ページ「滅びるときにこそ文化が」)あの言葉の重さがずっしりきました。
ダムや空港、高度経済成長で村が無くなっていった時代だから、実感として、あったんだろうなぁ…。


しかし、もうちょっと早く産まれてたら、牧野村で大島渚監督や淀川さんに会えたり、土方巽様があの扮装で村を歩く姿を拝めたかもしれないのにーッ!。土方巽様のあの、無重力状態な歩き方にはクラクラきてしまいます
本当、出遅れ感、半端ない…。

posted by 永島大輔 22:38comments(0)trackbacks(0)pookmark





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