そらいろキップ

言葉や国は関係なしに
汽車に乗り 眠り続ける少年の知らない
記憶の底の底の世界樹が

すべての、真実。







寝ても覚めても   濱口竜介監督

『寝ても覚めても』の濱口竜介監督の映画をはじめてみたのが酒井耕監督との共同監督『なみのおと』のおかげか、濱口竜介監督の映画は劇映画で原作や脚本があっても、根っこには記録映画の『語り』の面白さがあると思っている。


その『語り』が標準語から遠く離れて方言で語られ『ハッピーアワー』のように映画の筋から離れるほど、共同体の記憶をたぐいよせてきて、言い伝えが生まれる瞬間に立ち会っている感動をおぼえて、不思議な高揚感を感じる。


『寝ても覚めても』にも「記憶をたぐいよせる感覚」を強く感じるのは、劇中に重要な役割となる写真家 牛腸茂雄氏の作品が現れた瞬間に、牛腸茂雄氏を題材にした佐藤真監督『SELF AND OTHERS』の、あの記憶をたぐいよせる感覚がよみがえってきたからだと思う。


佐藤真監督が映画を撮られていた時代は、映画がデジタルカメラでも撮られるようになってきたという技術的な変化と、今までの記録映画の概念を覆すような海外の作品が公開されるようになった時代で、佐藤真監督は映像表現の可能性を果敢に追求されていた方だと思う。

アレクサンドル・ソクーロフ監督『ロシアン・エレジー』と佐藤真監督『SELF AND OTHERS』をあわせてみるといろんな発見があると思う。

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1987、ある闘いの真実   チャン・ジュナン監督

韓国映画から独裁政権の怖さと民主主義の大切さを学ぶ事が多い。

昨年みたヤン・ウソク監督『弁護人』もそのひとつ。


チャン・ジュナン監督『1987、ある闘いの真実』にほんの一瞬現れる新聞には真実を伝えようとしない新聞を諷刺した漫画が現れる。

本作とあわせて光州事件(1980年)を題材にしたチャン・フン監督『タクシー運転手 約束は海を越えて』をみると独裁政権に苦しめられている人達の暮らしを変えるために命がけで真実を世界に向けて報道した人達(ジャーナリスト)の存在を気づかされる。

記録に残し伝える事をしなければ、苦しんでいる人達の存在が無かった事にされてしまう。

真実を追求し、民主主義を獲得しようと闘う人達の姿に心を揺さぶられ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、映画が終わったあとも椅子から立ちあがる事ができなかった…。

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ハナレイ・ベイ   松永大司監督

日本人からはみえない、あるいはみようとしない死と隣のあわせの美しい楽園のような島で息子の幻影を追う母親の姿に、目にはみえない友人が嵐の夜に玄関先に訪れたり、部屋の中を漂っていたり、その姿を確認したくて彷徨っていたあの感覚がよみがってきて、とても切ない。

映像の静と動の不思議な極端なつなぎ方。

映像と音のわずかなズレと、映像に重ねられた波の音に揺すぶられているうちに、母親になる前に息子を失ってしまった人(女性)の姿がみえてきて、さらに切ない。

『トイレのピエタ』をみていない事がとても悔やまれる。

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乱世備忘─僕らの雨傘運動 陳梓桓(チャン・ジーウン)監督  

香港の民主主義、民主的な選挙を求めるデモ隊の人達や学生を友達のような親しさで撮影された陳梓桓(チャン・ジーウン)監督『乱世備忘─僕らの雨傘運動』には「撮影の対象となる人達と同じ視線を持ちながら、今はどのような状況なのか外側から分析する視点」という記録映画にとても大切な要素がある。 

学生運動を題材とした映画といえば小川紳介監督、小川プロダクションの三里塚闘争シリーズや土本典昭監督『パルチザン前史』は好きな映画だけど学生運動に対してどこか怖い物を感じてしまう。

『乱世備忘─僕らの雨傘運動』がそれを感じさせないのは撮影された人達の語りには思想の押しつけのような物がなくて、ひとりひとりが疑問に思い、いまはどのような状況なのかを考えて、いつまでも自由に意見を出しあえる雰囲気があるから。 

陳梓桓監督はここに共感して撮りたかったのだと思う。

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止められるか、俺たちを 白石和彌監督×井上淳一脚本

白石和彌監督、井上淳一脚本『止められるか、俺たちを』舞台挨拶に行く事はできないけど、初日の朝一番でみてきました。

僕の中で芸術に熱気と猥雑さが存在した1960年代への憧れは強い。

永島慎二さんの『フーテン』の世界に憧れていたので『止められるか、俺たちを』の若松プロに集う人達の姿には胸が熱くなります。

現在も映画の世界で活躍されている人達が実名で登場する。あの伝説的な人(というか怖そうな人)の若い頃の姿に目が点になり大笑い。そして、映画や社会に対するひたむきさに泣けてくる。

芸術を表現する人が政治的な事を言うと安易に「芸術に政治を持ち込むな」とウザい事を言われてしまう今の時代には、本当、こういう映画が必要なんだと思います。

気持ちのいい映画の爆弾のような映画です。


『止められるか、俺たちを』は映像のしっとり感が魅力的。

夕暮れの後の夜がやってくる木陰の薄暗さとバイクの質感や、夜のプールの水面の透明感や色遣い。デジタルでもこんな表現ができるんだーと発見の連続。

あと「映画にメガネ男子が出るとテンションがあがる」という方は必見。いろんなタイプのメガネ男子が出る。

歌うオバケ(きゃー!)も素敵だけど、Wけんじにやられた。

映画をみていると60年代のアングラ界隈の交流関係がみえてきて興味深い。
タモト清嵐氏が演じているオバケが秋山道男氏という方で、あのJUNEの表紙のデザインをしていた事を知って感動したのでJUNEを買うような、いけない子供でよかったと思いました笑。

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モアナ 南海の歓喜 ロバート・フラハティ監督

ロバート・フラハティ監督/共同監督フランシス・フラハティ モニカ・フラハティ『モアナ 南海の歓喜』。


ある年、山形国際ドキュメンタリー映画祭に参加する事になったけれど、記録映画とは、どんな物なのかさっぱりわからない。

その時にみせてもらったロバート・フラハティ監督『極北のナヌーク』や『アラン』、小川紳介監督、小川プロダクション『ニッポン国古屋敷村』『1000年刻みの日時計 牧野村物語』。

木造の校舎や公民館で16mmの映写機の音ととともに記録映画のフィルムは廻っていた。

あの時以来、ロバート・フラハティ監督と小川紳介監督、小川プロダクションの存在は山のように大きい。


未見だった『モアナ 南海の歓喜』デジタル技術で修復された本作は、昔の映画。無声映画はボロボロの雨(縦の傷)が入った映画という思い込みを根底から覆す。

可燃性のフィルムでなければ表現できない美しい白黒の粒子が、空、海原、大自然となりスクリーンによみがえり、よみがえった人達は親しい友人に微笑むように100年後の観客に語りかけてくる。

時々、ぎこちなく感じる映像の動きは撮影者の身体感覚を感じさせて未知の映像体験へと導いていく。


おなじ土地で暮らしを共にする事で生まれる記録映画。

子供の思い出話をフラハティ監督達が面白がり、それを再現したと思われる場面を含めて『モアナ 南海の歓喜』には、撮影の対象となる人達と撮影者達が共に映画を作る喜び、記録映画を演出する幸福感があった。

フラハティ監督の映画をみてしまうと、記録映画に演出(やらせ)がある事が非難されるたびに「記録映画に対する考え方が100年ほど遅れているのでないか?」と思ったりする。


フラハティ監督の映画の遺伝子は現在にも受け継がれていてる。

『モアナ 南海の歓喜』や『極北のナヌーク』『アラン』は異なる時間で撮影された場面が映像を編集する事により、おなじ時間、おなじ場所で起きた出来事のように感じさせる。

本多猪四郎監督がフラハティ監督の映画が好きだったという話を思うと、『ゴジラ』をはじめとした、異なる空間で撮影された怪獣と人間がおなじ空間にいるように感じる、あの編集がフラハティ監督の編集と重なる。

そして『モスラ』のインファント島はポリネシアで、あの舞踊の原型は『モアナ 南海の歓喜』にあるのではないかと夢想したりする。

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実録・連合赤軍 あさま山荘への道程   若松孝二監督

ベトナム戦争に反対して平和を求める学生達が自分達とは異なる意見を述べたり、異なる行動をとる人物を徹底的に糾弾し、時には暴力で制裁する。


この暴力はどこからやってくるのか?。

はじめは高い理想を掲げていた人達が閉ざされた世界へと追いやられ、恐怖に支配される。

恐怖に支配された人達が、それが正しい事だと思い込み暴力で制裁し、さらに追いやられる事になり、衰弱していく姿に圧倒されて、映画をみている間、何度も何度も姿勢をなおしました。

戦後生まれの学生達の行動が彼らの両親、祖父母が経験した恐怖政治の時代に重なってくる。

代島治彦監督『三里塚のイカロス』をみた時にも思ったのですが、暴力はいつの時代も誰の心の中にも存在しているのかもしれない。


衰弱している人達はこの状況から救われたかったのかもしれない。

その救いとなるのが、矛盾を言いあてた少年の発言と、もうひとつの暴力だった。

山荘に立て籠もる人達に鉄球や放水で攻撃する事は、もうひとつの閉ざされた世界では正しい事だったんでしょうね。


それにしてもタモト清嵐に萌えてくるのは何故ー?。白石和彌監督『止められるか、俺たちを』がますます楽しみになってきた!。

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東京暮色   小津安二郎監督

60年前の映画とは思えない4K修復版の美しさに「え、嘘!」驚きの声をあげた。

小津安二郎監督『東京暮色』。

そして「もしかして、この構図がペドロ・コスタ監督に影響していて、もしかしてアキ・カウリスマキ監督も入っているような気が…キャー!」映画の筋とは関係ない所で妄想が爆発していく。

小津さんの映画は昭和レトロな町並みや看板好きにはたまらない場面が続き、俳優の動きと物の配置の絶妙さに「あ!」と驚かされる。

たいめいけんの初代、茂出木心護著『洋食や』に小津安二郎監督の映画で居酒屋でお燗が提供される間について書いてあるけど、それを読んだおかげで、何故あの場面がぬる燗(たぶんもっとぬるめ)なのか、想像できた。

鰻屋の客席の間仕切りのデザインと画面に占める割合の大胆さ、卓上の徳利…すべての物が数ミリ単位で配置され、そして、俳優はスクリーンの観客に語りかけ、突然、感情を爆発させたかと思うと、突然、泣いて肩を震わせる背後へと場面が切りかわり、まるで、自分が追い詰めたかのような罪悪感がやってくる。

その突然、爆発する感情の原因は「日本の家族はこうで無ければならない」という、家族制度の重圧にあるのだけれど、それから逃げだしたはずなのに、とけない呪いのように再び重圧へと帰ってしまうから怖い。

もう、山田五十鈴のあの場面には泣かされました。

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きみの鳥はうたえる   三宅唱監督

長い昼寝の後の夕暮れ時にでかけた映画館で夜になり、三宅唱監督『きみの鳥はうたえる』に出会った瞬間に映画の世界と繋がった幸せな感覚に包まれる。

この映画にその事を感じるのは、純粋にいい映画を作ろうとしている人達の存在。映画の中で生きている人達と夜と明け方の闇と光、町の表情の豊かさは、本当に作りたい映画を作ったジョン・カサヴェテス監督に通じていて、映画が終わってしまう事が大切な友達とのさよならにも似ている。

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ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書 スティーヴン・スピルバーグ監督

過去の出来事を描いた映画が現在の出来事に重なる事がある。

スティーヴン・スピルバーグ監督『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』の憲法、報道の描き方は、不思議なくらい現在の日本と重なってみえた。


「憲法は国民を守るため、国家を監視するためにある」と熱弁したヤン・ウソク監督『弁護人』の後に『ペンタゴン・ペーパーズ』をみると憲法が国家の不正を守るために機能する事のおかしさを指摘している事に気づかされる。

『ペンタゴン・ペーパーズ』を語る時にトム・マッカーシー監督『スポットライト 世紀のスクープ』も引き合いに出されるけど、ジェームズ・ヴァンダービルド監督『ニュースの真相』も思い出すと、真実を報道するのは大変な事で、その事に対して、茶化すように批判するのは、とても危険な事なんだと思う。

自由な報道ができなくなり、まわりまわって自分の知る権利が無くなるんだもの。


『ペンタゴン・ペーパーズ』のメリル・ストリープの台詞は観客の頭の中で勝手に台詞が出てくるような少なさなんだけど、少ないからみえてくる演出と演技の凄さ。

メリル・ストリープ演じるキャサリン・グラハムが決断を下すまでの人間関係と遠回しに煽ってくる人の、ほんのわずかな唇の動きとか、すげーの。

そして、この美しい照明。

音も気持ちよくて、カメラのマグネシウムのボンッ!という音とか惚れまくりです。


あと、本編とは直接関係ないけど、あ、あの映画のポスターが出てくるどー!!。

えっ、何の映画?「いやー、アンタもバカだねぇ笑」な伝説のあれですよ。あれ。エンドクレジットにも名前が出てくるよ!。

びにょーん。

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