そらいろキップ

言葉や国は関係なしに
汽車に乗り 眠り続ける少年の知らない
記憶の底の底の世界樹が

すべての、真実。







雑魚寝

彼が自転車で川沿いへむかう道のりで

これからの行先を言いあてる、あいつがあらわれたのは、空へ落とされた子供が笑う昼さがりで、それは幾度となく繰り返されてきた。


事の発端は、長い長いあくびと永遠を思わせる汽車の旅で、十字架が溶けていく葡萄酒の瓶の冷たさは、彼の友達の頬とおなじで、  

なにひとつ

もくろみもなく、床に転がる僕達の天井の扇風機はどの絵画よりも尊いものだったよ。


僕はこれからの行先をいいあてるあいつよりも、いままで肌重ねてきた人達をいいあてる

きみの目の輝きのとりこになっていた。  


ただ ただ 許されたかって。

人を救済する事の罪が火傷となりつきまとうから。


だから、いまも。

きみの目の輝きを待っている。

たぶん きみに再び出会うまで 許される事も救われる事もなくて

あの森の家

顔を忘れてしまった祝宴の雑魚寝で待っているよ



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ゆらぎ

集合住宅の3階のその先の屋上はまぼろしだったので居場所ない凧がふてくされたように ゆられていた

この記憶がぼんやりとしていて不確かなのは その数年前に 

この世界に存在していなくて

この世に存在していない兄にたえず呼ばれ続けているからなのだと思う


彼がいるのは 決まって柿の木がみえる   

その橙と赤は青空から忘れされていた

窓のカーテンのゆらぎで 

陽射しの中かくれんぼしていた

彼が僕の指をつかい描く

それは 何の形にもならず 

ただ ただくやしい思いがつのっていた


たぶん それは秋と呼ばれる時間だった

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ふと、思い出した。丘の上。

ジョルジュ・バタイユの『聖なる神』をお気に入りのマンガをすすめるような笑顔。あるいは好きな女の子の話をするように教えてくれたのは、今となっては本人の代わりに頭の中にやってくる友達。

そういう所が好きだったよ。

世間様が喜ぶような優等生な感受性とか、そんな物はいらんわ。

丘の上の部屋は風通しがいいので飲みながら話をしているうちに大事な映画の話をしているうちに眠ってしまった気がするけど、何の映画か思い出せない。 

焼酎をほぼ原液で飲んだせいだね。


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ブラック・クランズマン   スパイク・リー監督

映画の土台を作られたあの監督の事は大好きだけど、あの映画は「映画の面白さ」とは別に「社会への影響」とは無関係ではないと頭ではわかってはいても、本質を突く形で引用されてしまうと、とても動揺して泣けてしまった…。

それも含めて映画の歴史を絡めた「反骨精神と滑稽に満ちていて、観客を挑発する」たくさんの仕掛けの見事さに「スパイク・リーの兄貴!かっこいい!」声援を送らずにはいられない。

アカデミー賞でのスパイク・リー監督の発言には共感できるので『ブラック・クランズマン』みたら、すっきりしたぁーッ!!。

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シシリアン・ゴースト・ストーリー   ファビオ・グラッサドニア/アントニオ・ピアッツァ監督

『シシリアン・ゴースト・ストーリー』のような映画に出会うために、映画館に通い続けて映画の夢をみているのだと思う。


いつかまた出会う日を信じて待ち続ける。

彼を忘れない事の大切さ。

本来なら出会う事のない映像と映像が出会い、暗闇の奥底からわきあがる情熱は映画の詩、言葉の詩となり、すべての垣根を越えて世界を満たしていく。

映画にみとれているうちに、詩の心を伴った、いくつかの台詞が心のどこかに消えてしまい、思い出せない事が悔しい。

起きた瞬間に大切な夢を忘れてしまったあの感覚。

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禁じられた遊び   ルネ・クレマン監督

美しい農村から人々が消えていって死に包まれた後に、もとの美しさが戻ってくる怖さ。

とても大切な人をなくした時、楽しい思い出よりも、負の記憶がその人を思い出させる事になったりする。

子供の「ごっこ遊び」は、自分が体験した事に対する思いを言葉で表現する代わりに遊びで表現する。

ポーレットはミシェルと「ごっこ遊び」を繰り返す事で両親の記憶を再生しているのだと思う。

戦争や混乱した社会は子供という小さな人をふくめ人間にどのような影響を及ぼすのか。

日本の戦前〜戦後の少年犯罪はいまよりも過激で残酷だった事を知ると、その疑問はさらに深まる。

『禁じられた遊び』の純粋さと狂気は

ドロタ・ケンジェジャフスカ監督『明日の空の向こうに』。ヤーノシュ・サース監督『悪童日記』へと時を越えて繋がっていく。

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未来を乗り換えた男   クリスティアン・ペッツオルト監督


奇妙な間隔で映像が分断と接続を繰り返し、主人公の視点が自己と他者をさまよい歩き、思考が自分以外の人々にも熱病のように伝染していく。

とらえどころの無い迷宮のような映画にみえるけれど、迷宮の奥にあるのは捨てられた人々。

迫害された民族の記憶の集合体だった。

過去の出来事が現在に重なり、映画で表現された時に、それは生々しい現実感を伴いみる者に迫ってくる。

パブロ・ラライン監督『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』。詩人を追いかけているうちに、詩人の思考に捕まってしまう。

あの感覚に通じる凄さ。

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迫り来る嵐   ドン・ユエ監督

山形国際ドキュメンタリー映画祭を通して90年代以降の中国の記録映画をみてきたおかげか、映画の中に再現された中国の町並みに懐かしさを感じ、時折、混在する廃墟にそこはもう存在しない場所である事を気づかされて寂しさを感じたりもする。

記録映画に話がずれてしまうけど、王兵監督『鉄西区』では数年間で町がまるごと変容してしまうし、徐辛監督『長江の眺め』では、山奥に近代都市が誕生したりする。

『迫り来る嵐』では嵐のように急激な経済成長を遂げた事で自分達の故郷、存在感を喪失した人達の姿が浮かびあがってくる。主人公の名前、余国偉にはどんな思いが込められているのだろう?。

真実なのか。

狂騒の産物なのか。

10数年前の思い出がすべて消え去っていくのはとても怖い。

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ともしび   アンドレア・パラオロ監督

アンドレア・パラオロ監督『ともしび』映像の粒子の細やかさと陰影の美しさに引き込まれ、朝靄がリリアーナ・カヴァーニ監督『愛の嵐』の夜霧に重なるシャーロット・ランプリングへの恋文の映画。

シャーロット・ランプリング演じるアンナの暮らしが崩れていく。

言葉による説明が失われた『ともしび』は映像が雄弁に心の中を語りだす。

映像が奥行きを失い、光を失い、硝子に反射した風景が心の中を語りだし、崩れていく暮らしに抗うように芸術が挟み込まれていく。

芸術が人の心を救う手助けになる事があるけれど、監督がその芸術に出会ってきたのではないかと想像してみたりする。ミケランジェロ・アントニオーニ監督『赤い砂漠』が好きだったりするとたまらない映画。



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サスペリア   ルカ・グァダニーノ監督

ルカ・グァダニーノ監督『サスペリア』は前作『君の名前で僕を呼んで』とは異なる作風のようにみえるけれど「当時の社会の価値観、考え方が亡霊のようにとりついている人に訪れる人生の分岐点」という所が共通していて、当時の考え方を想像するきっかけになったりする。

『サスペリア』は第二次世界大戦が終わり東西に分断されたドイツが舞台。

患者思いの温厚な姿をみせる精神科医はナチスから受けた思想から逃れられないようにもみえる。(大虐殺と無縁ではない、この職業でそれはどうかとも思うけど)

『サスペリア』で重要な題材のひとつは『舞踏』という芸術で、芸術の本来の姿は神や悪魔と交信する事により人間の本性をさらけ出す所にある。

精神科医がアーリア人としての誇りを思い返すように、『民族』という名の舞踏の宴が繰り広げられる。 

あの舞踏の宴は、大虐殺の引き金となった思想が再び目を覚ます事への警告のようにも思える。

はじめのほうに精神科医が『サスペリア』をみるうえで、大切な事を言っている「患者は妄想で真実(現実)を語りはじめる」。

ホラー映画ではあるけど、同時に社会派の映画なのかもしれない。



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