そらいろキップ

言葉や国は関係なしに
汽車に乗り 眠り続ける少年の知らない
記憶の底の底の世界樹が

すべての、真実。







星空   トム・リン監督

冒頭のきらめきに一気に映画の中に引き込まれた。


ガラスの反射、すりガラスに閉ざされた人影から少女の心を表現する。

その古典的な表現の美しさ。

それは映画館の暗闇にだけ咲く事ができる、いまでは幻の映画の華だった。


少年少女の揺れ動く感情に寄り添う音楽の演奏の時間と場面の切り替わる瞬間が同調するみごとさ。

トム・リン監督の芸術に対する思いに涙が出てきて、映画が終わる瞬間がとてもとても寂しくなった。

できれば一晩中みていたかった…。

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禅と骨 中村高寛監督/プロデューサー 林海象監督

年を重ねた方の話には、その何気ない言葉のひとつひとつに、歴史を考える時にとても重要な手がかりが存在している。

『禅と骨』の主人公となるヘンリ・ミトワ氏の生涯は歴史のあの瞬間に立ち会った方だから話せる事がたくさんでてきて、驚きと発見の連続。

そして、国について考えるいい手がかりになりました。

 

自分が住んでいる日本はどんな国なんだろう?。

その昔、手がかりを求めていたら薄暗い古本屋でオイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』や岡倉天心『茶の本』と出会った。

必要なのは外側から対象をみる視点で『よそ者の視点』が大切なのではないか?という事に気づいた。


アメリカ人と日本人の間に生まれたヘンリ・ミトワ氏は、どちらの国に住んでも『よそ者』として対応されたけれど、そのぶん国境などというものを軽く越えて、どこにも縛られない芸術を追求する事ができたのではないか?。


映画に出てくる、写真、映画、庭、デッサン、陶芸、茶道、本、家具、電灯…。

ヘンリ・ミトワ氏が暮らしの中で手がけた品物はすべてが、しっかりとした美学に貫かれていて、とても日本的なのに『日本』という国を越えた美しさで映画が宝石箱のようにきらめいている。


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立ち去った女   ラヴ・ディアス監督

無実の罪で30年の間、牢獄にいた女が町を彷徨する。

自分の人生を奪った人間に復讐するために。

その過程で出会った人達に無償の愛情を注いだかと思えば、一瞬のうちに怒りと恨みに狂い、のたうち回る。


ふだんの映画ではあたり前の表現。

人の顔を拡大して撮影するクローズアップが存在しない長廻しの連続の白黒の映画。

観察するように撮影した映画に夢中になり、怒りと恨みに狂い、のたうち回る女の身体の動き、歪んだ形相を凝視すればするほど、目にはみえない感情が存在が心にまとわりつく。


変わらないように思える映画の構図は、ある人の台詞を機に気づくか気づかないほどに変化する。

それは、イングマール・ベルイマン監督の映画に射す光と言葉のような鮮やかさで、人の一生と神の存在を問いかけてくる。

もしかしたら、神が手を差し伸べた事で手にした結末は幸せな事だったのでしょうか?。

ほとんどの映画から神の存在が消え去った現代にラヴ・ディアス監督『立ち去った女』に出会えた事はとても貴重な体験だった。


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パターソン   ジム・ジャームッシュ監督

映画をみに町へでる時に本屋により、藤本哲明という詩人さんの『ディオニソスの居場所』を予約しに行こうと決めた朝にジム・ジャームッシュ監督『パターソン』に出会った。

小さな偶然が連なる。秋の陽射しのように短い時間から成り立っている映画は、映画館の外で赤くなり始めた葉に共鳴しているようだった。

なんでもない幸せと、何かを失う日。

ジム・ジャームッシュ監督がノートの白い紙に広がる可能性を描いた瞬間。


たまたま現代詩手帖を手にとり、藤本哲明氏の詩を読んだ冬の日を思い出した。

訪れた事のない明石の海が輝いていて、何かを失った後に人が再生していく時の言葉の力強さがそこにあった。  


あの冬の日と重なる小さな偶然になぜか涙がでた。


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三里塚のイカロス  代島治彦監督

記録映画とはどんな物なのかよくわからない時に出会った小川紳介監督、小川プロダクションの三里塚闘争の映画、その後の山形で撮られた映画は僕にとって記録映画の教科書的な存在です。


小川紳介監督はレギーナ・ウルヴァー監督『ハレとケ』の中で、話をする人を撮影する時に、その人の姿を全体から撮影を始めて話が核心に迫るにつれてカメラが寄っていく『間』の大切さを語っていました。

代島治彦監督『三里塚のイカロス』には、その『間』が受け継がれている。


映画の中で代島治彦監督がかつて三里塚闘争で闘ってきた人達への声がけは暖かくて、優しい。

そして、核心へと迫っていく。


三里塚で撮影されているので、人間が生活するスレスレの空間を飛行機が飛んでいく。

時々、飛行機の爆音とともに話が中断する。

それは、次の言葉を選ぶ思考の『間』のようにも思える。

その瞬間に、飛行機の姿をおさめたカメラが話し手の顔に寄り、次の瞬間に鋭い証言が発せられた時の『間』の見事さ。

動物的なカメラの美しさ。

撮影の対象となる人達の生活に入り、相手の言葉を預かる覚悟、緊張感の凄さに背筋を伸ばしました。


三里塚闘争の事の発端。

成田空港を作ろうと思った人達は国を発展させるために、良かれと思って計画をたてたと思う。

お百姓さん達はご先祖様から受け継いだ土地を守るために反対した。

そして、全国からお百姓さん達を守るために若者達が集まった。


どの立場の人でも出発点にあるのは『善意』だ。

その『善意』が暴走していった時に、それは『怪物』へと変貌していく。

人は不条理な事が起きると「全体主義」や「独裁国家」と非難する。

それは当然の事だけれど、その非難する人間の側にも「全体主義」や「独裁国家」の萌芽があり、いつか開花する日がくるかもしれない。

『三里塚のイカロス』が辿りついた三里塚闘争が敗北した真実には鳥肌が立った。

この映画は三里塚闘争だけではなく、他の出来事や未来の社会で不条理な出来事が起きた時に、読み解く教科書的な存在になる。

こういう映画を記録映画と呼ぶ。


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長江の眺め 徐辛監督


山形国際ドキュメンタリー映画祭2017 10/8㈰徐辛(シュー・シン)監督『長江の眺め』上映前に『ディスカッション:海外からみた佐藤真』でマーク・ノーネス氏、秋山珠子氏、ジャン・ユンカーマン監督による佐藤真監督が海外に与えた影響について話を聴く機会がありました。


93年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で佐藤真監督と呉文光(ウー・ウェンガン)監督との出会いが中国の記録映画の流れを変える事になった話を聴いた後に徐辛監督『長江の眺め』をみて、監督の質疑応答を聴く事ができた事は中国の記録映画の流れが変わっていく瞬間に出会うようでとても幸運でした。


幻想的で美しい硬質な白黒の映像。

そこに写し出される国に忘れさられた人達が発する言葉は少ないけれど、その服装、日常の仕草、ふるまいでもって、巨大な成長を続ける中国の真の姿を雄弁に語る。


トーキ映画、カラー映画の登場とともに忘れさられた白黒の無声映画がひっそりと進化していて、一気に花が開いた瞬間をみる思いで興奮が止まらなかった。

興奮が止まらなかったのは、映像がとても芸術的なのに、社会をみるまなざしの鋭さ。政治性が両立しているから。


『長江の眺め』の長江の風景は、国民を忘れた国の未来を暗示するようで、この世の果てに連れていかれるような怖い風景に震えあがった。

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ディスカッション:海外からみた佐藤真 字幕の話で思う事

山形国際ドキュメンタリー映画祭2017 10/8㈰とんがりビル1F KUGURUで開催された『ディスカッション:海外からみた佐藤真』で、マーク・ノーネス氏が佐藤真監督と「方言と方言が生まれた土地の歴史や文化をどう英語字幕で伝えるか?」と試行錯誤した話は、ふだん外国映画をみながら「英語にも訛り(方言)があると思うけど、それを標準語の字幕にするのはどうなんだろう?」なんて思った事があるので、とても興味深い話でした。


僕は山形という土地柄もあってか、お年寄りの話を聞く機会が多い。

おなじ山形県でも地方によって方言が違い、年代によって方言の語彙数が違ったりします。あてずっぽうですが、生活環境の変化とかあるのかも。


お年寄りによっては、ひとつの言葉(本題)にたどり着くまでに、けっこうな時間を要する事があります。

聞く側からすれば「もう少し要点をまとめて…」と思わないでもないけれど、話をする側での頭の中では「一番伝えたい言葉にたどり着くまでに、いろんな思い出が映像となって現れているのだろうな」と考えながら、聞く側も言葉の断片の連続から映像を想像したりします。

その映像に没頭しているうちに、僕(聞く側)はその人の『雰囲気』を記憶しつつ必要な言葉以外は淘汰していたりする。

ぶっちゃけた言い方をすると、聞いても聞かなくても同じ事のような気がしてきて(失礼なやつだなぁー)本題以外の言葉がノイズと化して、その人の目には見えない『雰囲気』の割り合いが多くなっていく。


参考資料として上映された佐藤真監督『阿賀の記憶』の一場面。

新潟県の地元のお年寄りの話が延々と続き、雪道が現れる。

新潟の方言なら何となく、わかるかもしれない。

お年寄りの話に集中して耳をすましているうちに、お年寄りの話にあわせて佐藤真監督がこの雪道の風景の映像を編集している事がわかる。

それは、お年寄りと佐藤真監督達との人間関係から生まれたもので、お年寄りの雰囲気を表現していて、声を代弁している。

ある意味、方言を映像表現に翻訳しているように思えてくる。


「たぶん、この話をしているお年寄りの中では、このような思い出がよみがえっていて、一番言いたいのは『朝鮮人』という言葉で、朝鮮人の人が日本で労働させられた事なんだろうなぁ〜」と考えながらみているうちに『朝鮮人』以外の言葉がノイズと化して雪道に同化していく。


そう感じた瞬間に現れた字幕が「KOREAN」ひとつだけだった!!。

わーすごい!。大当たり!なんかちょうだいじゃなかった。

こんなに省略していいもんなんですか!?。大笑いしながら、どういうわけなのか『イメージの午後 レオ・レオーニ&松岡正剛 間MAの本』(工作舎)が頭にポンと浮かんできた。

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大林宣彦監督祭り

『この空の花─長岡花火物語』『野のなななのか』の上映会。そして大林宣彦監督と根岸吉太郎監督とのシンポジウム。

8時間近い大林宣彦監督祭りは最高だった…。

しかも大林宣彦監督に直撃してサインまでいただく事ができました。

山形映画祭で鍛えられた映画をみる体力と監督を追っかけるミーハーな情熱はこの日のためだったのね。

子供の頃から憧れていた人に会える日がくるのはとても幸せな事です。

企画された小林みずほさんをはじめ、映像文化創造都市やまがたの方達。市民ボランティアの方達。会場を提供されたフォーラム山形に熱烈感謝です。


大林宣彦監督は日本のCMや自主制作映画の草創期から活動されていた方で、あの時代のギラギラした雰囲気には憧れを感じていました。

1960年代の芸術を武器にした前衛芸術。


映画会社で作られる映画とは異なる場所で詩を綴るように、絵を描くように、個人で映画を作り始めた人達の実験映画や日記映画といわれる作品は、ちょっとやそっとじゃ理解できないけど、そこには個人で映画を作る喜びと、詩や絵画に隠された意味を考えるように映画をみる面白さがありました。


『この空の花─長岡花火物語』。

あの時代のギラギラした前衛芸術の熱量と現在の映像技術を融合させてスクリーンに大輪の花火を打ち上げるような力強い映画です。

記録映画と劇映画、そして実験映画の垣根を自由自在に行き来する。そこには映像表現の無限の可能性がある。

映画って、こんなに自由でいいんだ。もう驚きの連続です。

『野のなななのか』。

ひとつの対象に振り子のように寄っては去っていくカメラと、数秒単位で流星のように降りかかってくる映像と謎だらけの言葉と詩の猛吹雪。中原中也さんの詩が素敵。

めっちゃ前衛なコラージュ感あふれるCG表現にあっけにとられて、最後の最後でその意味がわかった瞬間、芸術の謎を解く面白さが終わってしまう寂しさがやってくる。

ここまで自由に映像を表現できるのは、映画館で映画をみるという事がどういう行為か知り尽していて、観客の映画をみて考える力を信用しているからできるのだと思う。


芸術は遠い遠い過去と現在を結びつける。

小林秀雄さんの中原中也さんの亡骸についての随筆を読んでいたら、どういうわけか中也さんの肌の硬直具合や匂いや身体の冷たさが伝わってきた事があってたけれど『野のなななのか』は中也さんが耳元で囁いてきた、それは快楽に近かった。

大林宣彦監督の映画に身近な存在として幽霊が出てくるけど、本当、あんな感じなのよね〜。


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チリの闘い─武器なき民の闘争 パトリシオ・グスマン監督

恥ずかしい事を書いてしまいますが、2015年の山形映画祭でパトリシオ・グスマン監督『真珠のボタン』をみるまでチリの歴史を知りません
でした。
そんな僕みたいな人にその時代に何が起きていたのか、わかるようにパトリシオ・グスマン監督『チリの闘い─武器なき民の闘争』は作られています。
ある国が独裁国家へと変貌していく。
現代の人達が過去を回想した記録映画や劇映画はみた事がありますが、その過程を同時代に記録した映画ははじめてみました。

都合の悪い真実は隠蔽される。
時の権力者に都合の悪い出来事は書き換えられてきた歴史を考えれば『チリの闘い─武器なき民の闘争』は奇跡そのもので、真実を記録する事の大切さがビシバシと伝わってくる記録映画です。

チリに住んでいる人達が理想的な社会を目指すために何をすべきか語る時の表情、仕草の豊かさ。生活するために身体を動かす人達の姿は動物の神様が降りてきたような華麗なダンスだった。
その力強さをみているうちに、4時間30分はまたたくまに過ぎていく。
半世紀も前。
異国の人達の姿がついこの前、旅先で出会った人達のように親しく懐かしく思えてくる。
こう思えてくるという事は、ものすごい複雑な編集と音の入れ方をしていると思う。
親しく懐かしく思えば思うほど、頭の中に思い浮かぶのは『真珠のボタン』で描かれた独裁国家になった国でこの人達が辿る運命。
映画が終わった瞬間に訪れる、人間がこの世から消されてしまう怖さ。喪失感。吐き気がするほどの恐ろしさ。
国と国との争いに翻弄された人達の姿をみていたら『真珠のボタン』が何故、国境を越えて人類共通の精神世界に踏み込んでいったのかわかったような気がしました…。







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ヤング・アダルト・ニューヨーク  ノア・バームバック監督

アメリカのノア・バームバック監督は深刻な問題を正面から扱っているけど、どこをとっても写真集になりそうな映像のかっこよさ。何故か笑わずにはいられない演出の絶妙さ。
笑っているうちに本当に大切な事を教えてくれる素敵な監督です。
『イカとクジラ』『フランシス・ハ』もよかったけど、『ヤング・アダルト・ニューヨーク』こんなに化けると思わなかった。
ひとりの監督の作品をみ続けてきてよかったと思える作品です。

なかなか映画を完成させる事ができない記録映画の監督ジョシュ(森達也監督『FAKE』をみたら激怒するタイプ笑)が自分よりずっと年下の世代と出会う事で、いろんな発見や刺激を受けていく姿。
同世代の所帯じみていく価値観に対する抵抗感。そのくせ身体は歳をとっていく。
なんかもー、実際、年下の人達と楽しい思いをしてきたおかげか、この大人になりきれない大人達の姿は他人事とは思えないリアルさ。
中2病には国境はないとはよく言ったもんだなぁ…。

映画の中で主人公が映画監督というのはよくあるけど、記録映画の監督はあまりないような気がする。「ええっ?。ノア・バームバック監督って、そんなに記録映画の事が好きだったんですか!?」なんか「好きな○○くんと、おなじバンドが好きだった。やったぜ!」な素敵な展開になるぞ。
そういえばノア・バームバック監督の人物のとらえ方はフレデリック・ワイズマン監督の観察映画みたいな面白さがあるなー。

ベン・スティラーとはいえば監督もされていて『ヤング・アダルト・ニューヨーク』は『リアリティ・バイツ』を思い出させてくれる…と書きたいところなんですが、ヒラリー・クリントンとデートする日が来たらぜひ一緒にみたい『トロピック・サンダー/史上最低の作戦』がとっても最高です!。
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