そらいろキップ
汽車に乗り 眠り続ける少年の知らない
記憶の底の底の世界樹が
すべての、真実。
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死に方のわからない少年と
数年前。 アレクセイ・ゲルマン監督『神々のたそがれ』が終わった瞬間。 異なる世界からやってきたような不可解で桁外れなロシア映画の新作と出会うのは、この映画が最後かもしれないという寂しさに包まれ映画館の片隅で涙をこぼした。あの日から数年後。 2021年にセルゲイ・ロズニツァ監督の群衆シリーズの『国葬』に打ちのめされ、イリヤ・フルジャノフスキー、エカテリーナ・エルテリ監督『DAU.ナターシャ』イリヤ・フルジャノフスキー、イリヤ・ペルニャコフ監督『DAU.退行』に出会い陶酔する事になった。 映画を追いかけてきてよかった。 『DAU』シリーズを「ドキュメンタリー的手法」と呼ぶのは容易いけれど、それだけではない。 映画の時代設定と同じ街と建物に実際に長期間暮らす人達の姿は明らかに他の映画と異なっている。 時代設定が1952年『DAU.ナターシャ』と1968年『DAU.退行』では人間の顔つきが異なる。 この、生々しさ。 ピオネールの少女がカメラを意識した瞬間が焼き付く。 例えるのなら細胞が培養されていく過程を顕微鏡で覗き込むような感覚。 他の国から隔絶された国に住む人達の実情を暗示するように語られる、実験用のマウスを見ている感覚に包まれ「ドキュメンタリー的手法」や「記録映画と劇映画の境界線」という考え(映画論)から突き放され観客の倫理観を試すような映像言語の共犯者となり魅了されていく。 ピオネールの少女がカメラを意識した瞬間の表情は、体制に感情を支配された人間の本能なのかもしれない。 アレクセイ・ゲルマン監督は『神々のたそがれ』で「悪が滅んだ所で、次の悪が現れる」と指摘した。 『DAU.退行』はヨシフ・スターリンが消え去った世界で次の勢力が誕生する過程を描きながら、その勢力が生まれる国と体制を必要とした西側の人達の姿を描く事で崇高な理想を掲げ革命に成功した国に対する憧れや西側に対する漠然とした信頼を木っ端微塵に破壊する展開は快感。 『DAU』シリーズは計14本あるという。 あと12本。 とことん最後まで付き合いますわ。
この世界の谷底へと降りていくかのような家路は幾つかの層に分かれていて『名も無き歌』の舞台となる国では幾つもの悲劇が潜んでいる事を表現する。 玄関の窓越しに響く声が絶望の暗闇に沈んでいく怖さ。 陽炎のように揺らめく人影。 少しずつ歪んでいく家屋。 船上で自分の赤子について女性が語る瞬間、陸地の光景に寒気がした。 アレクサンドル・ソクーロフ監督『ファウスト』の荒野の雄弁さにも似た、異質の荒野が広がり国が崩壊していく事の不安を描き出す。 鮮明さと引き換えに失われた映画の言葉を白黒映画の不鮮明さと共に復活させたメリーナ・レオン監督。 この監督の映画を追いかけていきたい。
古代エジプトからシルクロードを渡り日本へと伝わった紅花の記録映画。 興味深いのは昔の人が残した紅花にまつわる人達の姿を描いた屏風や絵巻物。 作業風景だけではなく、つかみあいの喧嘩をしている場面が描かれている。 この話の本筋から外れた場面。 絵描きの視点。 話の本筋からは外れているけれど、その世界に生きている人達の人柄がわかる場面は現在の記録映画の表現を豊かにする要素と共通している。 『紅花の守人』の紅花に対して人と接するように話しかける農家の女性や米沢織の紅染めの匠の背中に抱きつく孫の姿がそれにあたる。 現在の紅花にまつわる人達の姿と紅花を通じて巡り会う人達の姿が昔の人達の姿と重なり、紅花が複雑な歴史と社会情勢を生き延びてきた事に気づいた時、見慣れているはずの紅花が違う植物に見えてきました。 銀座で映画を見た帰りにインド料理のひつじやで、サフランライスを食べながら山形の事を思うという不思議な体験を思い出した。
村の子供達と監督との交流。 優しいお姉さんが側にいてくれる安心感に包まれた記録映画は「優しさ」と「安心感」から舞踏が生まれる。 言葉や声ではなく、同じ舞台に立つ相手の心の奥底にある記憶から生まれる気配や気のようなものを感じとり、相手の身体と心の動きに共鳴し、身体言語で通じ合う舞踏は心の垣根を越えていく。 村の子供達と監督の舞踏は目には見えないけれど、お互いの心が通じ合う事で「円環」が存在している。 舞台といえばジャン・モンチー監督が撮影する構図。 引いた画面で撮影された村は舞台のように見える。 その舞台には村人達の全身像がはいる。 子供には子供の。 老人には老人の。 その年齢でなければ表現する事ができない身体の動きが撮影される。 老人の動きは、この村の土の上を歩き、長い歳月を過ごした人でなければできない動きで村の歴史を身体言語で表現している。 『自画像:47KMのおとぎ話』には「優しさ」だけではなく子供達はどのような村に暮らしているのか記録し伝える「したたかさ」を持ち合わせている。 春節でも出稼ぎに行かなければならない大人達。 その大人よりも字がきれいな子供達。 大人達の中には子ども達が通う学校の制度を知らない人もいる 子供達と監督が一緒に考えた「青い家」の構想は公民館や学校に近く、ここからこの村にはどのくらい、そのような施設があるのだろうか?。 大繁栄を極めた国の変換期。 恩恵を受ける人がいれば、その人達を支える人達もいる。 平等を理想とした国で「格差社会」が生まれていると気づかされた瞬間。 冬の村に響くジョン・レノン『イマジン』。 陽気に歌う子供達の歌声は純粋な心の礫に似ている。 この瞬間ほど『イマジン』の歌詞が胸を締めつけた事はない。 「青い家」で村人達はどのような時間を過ごす事になるのか。 次回作も楽しみにしています。
創業135年の歴史を持ち2020年に廃業を決めた老舗漬物店「丸八やたら漬」の記録映画を見ていると山形の食文化。蔵にまつわる文化が見えてくる。 話は変わるけれど映画の歴史について考える時に、映画そのものについて考える以外に映画が生まれた時代や環境について考えると、さらに豊かな物が見えてくる。 丸八やたら漬が運営していた香味庵は山形国際ドキュメンタリー映画祭の時には映画の作り手。評論家。観客が映画について語り合う社交場となった。 山形国際ドキュメンタリー映画祭がきっかけとなり誕生した記録映画がある事を考えると、ひとつの記録映画が生まれる背景には昔の山形に暮らしていた人達の暮らしが存在している。 誕生した記録映画のひとつは佐藤真監督『阿賀に生きる』。 『丸八やたら漬 Komian』で『阿賀に生きる』の撮影監督の小林茂監督の語り『阿賀に生きる』が山形国際ドキュメンタリー映画祭がきっかけとなり完成していった過程や、記録映画における撮影の対象となる人達と作り手の関係性の核心をついた編集の話はとても重要な内容。とっさにノートに小林茂監督の言葉を書き留めたので、あの場面の特異さに共感できる。 廃業を決めた漬物店の記録映画と言っても昔を懐かしむだけではない。 『世界一と言われた映画館〜酒田グリーン・ハウス証言集〜』で過去の映画館の記録映画に未来の町作りの希望を託した佐藤広一監督。 丸八やたら漬が培ってきた歴史や山形の蔵の文化を未来へ繋げようと活動されている人達の姿を記録している。 フォーラム山形での上映は10/22㈮からです。映画館のまわし者みたいだな。
14歳。 生き物が生きていくための本能が目覚める季節と死の季節が同時にやって来るほど厄介で魅力的なものはない。 『うみべの女の子』はその季節の真っ只中にいる人達の映画。 頼りたい人に頼る事ができない絶望と孤独。 その人に向けるはずの剥き出しの感情が関係を否定する事になる恋人に向けてしまう悲しさと不安が磯辺恵介の瞳に現れる。 『風をあつめて』は部屋のどこかに埋もれてしまったので『僕は天使ぢゃないよ』をかけてみる。 天使に思えた磯辺恵介くんが天使ぢゃないと気づいた時に季節は変わり、一緒に過ごした大切な記憶と彼の存在は他の誰かへと受け継がれていく。 退廃の果てに辿り着いた純粋さに心のかさぶたをめくられいく感覚が映画に現れていて気持ちいい。
少女と少年の心に秘められた純粋さと脆さがレオス・カラックス監督『汚れた血』以来の物で映画が終わった瞬間、この映画と別れた事が悲しくなり、他の事ができなくなり2回会いに行った。 映像表現特有の光りと影が少女と少年の心を描く。 大勢の生徒がいるのに孤独である学校は冷たい青に覆われて、2人が出会い心を許しあっていく過程で暖かい橙色の光りが現れる夜の闇の美しさ。 少女の教科書の「ドブ川にいる者でも星を見る事ができる」という走り書きと、同級生にいじめられる少女を守る少年の境遇(環境)に、ふと、フランク・ボゼーギ監督『第七天国』が重なり、母親の所在が明らかになった時の少年の動揺する表情と照明に黒澤明監督『生きる』志村喬演じる父親が妻を思う表情が重なる。 『少年の君』は学校の中の「いじめ問題」を描きながら、その「いじめ」が生まれる原因が、その上の世代から続いている事を描きだす。 2011年に高校3年生の親が子供だった頃はどのような時代だったのか想像してみる。 冷たい青に覆われた学校には、もうひとつの印象的な色彩が存在している。 その色彩は最後には解放を告げるような白い紙吹雪の中に、頼りなげにぶらさがっている。 あの時代に叶う事のなかった世界を変える夢が受け継がれて、いつか叶う事を願いながら、あの白い紙吹雪は舞っている。 などと真面目に書くのはこのへんにして、優等生だけど学校ではいじめられていて、惚れたら一途なめっちゃかっこいい不良のにいちゃんと恋に落ちて、親切にしてくる刑事がイケメンで、いじめを仕切っている女子がめっちゃ美少女とか。 「こ、こんな昔の少女マンガ(マーガレットとか、りぼんとか)みたいなネタをぶちこまれたら撃沈するしかないじゃないか」そんな映画だった。 もう1回みたくなってきた。
1890年代。 絶海の孤島の灯台を守る2人の男を題材にした『ライトハウス』は得体のしれない怪奇映画に見えるけれど、当時の過酷な労働環境に生きた船乗り達の記憶(精神世界)が白黒映画で神話の世界を借りて表現されている。 船乗り達の映画で思いつくのは『ライトハウス』より数年後の1900年から始まるジュゼッペ・トルナトーレ監督『海の上のピアニスト』。 豪華客船に乗船する人達を描く事で当時の上流社会と労働者との格差社会を描いている。 豪華客船の底で暮らす船乗り達の労働環境は過酷で死と隣合わせ。 『ライトハウス』の灯台守の新人イーフレム。父親ほど歳の離れたトーマスもその環境を知っている人達だ。 イーフレムのトーマスへ反抗的な態度は「男性性」への攻撃を軸にしている。 父親の前の世代から続く男社会に作られた社会制度。労働環境へのやり場のない怒りが爆発すると同時にイーフレムはトーマスに欲情する。 イーフレムの怒りには当時の社会では禁忌とされていた同性愛に自分が該当するという嫌悪感。恐怖が混在し、欲情する対象を男性から女性に矯正しようとした時に女性は人魚の姿を借りて現れる。 トーマスは「かもめには亡くなった船乗り達の魂が宿っている」と語る。 あの、かもめ達は怒りを外へ向ける事が叶わず同胞に向けてしまった悲しい記憶を象徴しているのかもしれない。 それにしても心のどこかで夢野久作著『難船小僧/SOS BOY』とつながりニヤけてくるのよね『ライトハウス』。
戦争で自分達が被害を受けた事ばかり描き、加害者の視点が少ない日本映画が多い中で加害者の視点に歩み寄った映画。 作った方に失礼なので紹介。加害者の視点から戦争を描いた映画は若松孝二監督『キャタピラー』。井上淳一監督『戦争と一人の女』という物凄い映画があります。 柳楽優弥さんといえば真利子哲也監督『ディストラクション・ベイビーズ』の野生的な怖い姿に魅了された。 『映画 太陽の子』で彼が演じている研究者石村修はあの役柄とは異なる怖さ。 科学に対する「純粋さと熱意」が高まるにつれて、人としての境界線(倫理観)を彷徨う怖さと人としての自分を発見する過程を見事に体現している。 彼の終盤の行動は奇異にも思えるけれど、原爆の記録映画。橘祐典監督『にんげんをかえせ』の元となった記録映画の目的を考えると納得できる。 映画の中で語られる事はないけれど、石村修と同年代の学生の中には医学に対する「純粋さと熱意」から満州に渡った人もいる事を思うと学問と政治が結びつくほど恐ろしい事はないと思う。 この「純粋さと熱意」は戦前の特別な考え方ではなく、国家的行事が開催されると都合の悪い事を無視して熱狂する現在の日本へと継承されている。
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