そらいろキップ

言葉や国は関係なしに
汽車に乗り 眠り続ける少年の知らない
記憶の底の底の世界樹が

すべての、真実。







夜の詩と憎まれ口。

草原に火が宿る朝が終わると雨があがり、月が輝やく帰り道は夜の詩が歩きだす。あいつは、街灯の水たまりがお気に入り。

橙色に残された写真の海しか知らない僕にくらべて、彼の海は宇宙の旅に出た白いシャツの鮮明さに隠れていた。

夜にみた映画に心の声が連れ去られてしまったので、こうして彼と話をしている事が不思議な事に思え、裸電球に照らし出される彼の手櫛からは海が聞こえてきた。


港で船乗りを迎える踊り子は霧笛を呼吸の拠り所としている。

霧笛は乗る人がいないのに何故、待ち続けるのか。


こたえる事のできない問いかけの先が心の声の隠れ場所である事に気づいた頃には扉に近づく朝よりも彼の憎まれ口に安堵している。

それだけでよく寝る事ができるから。





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僕たちは希望という名の列車に乗った   ラース・クラウメ監督

『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』の監督なので、信念を貫き通す、真実を追う気迫がすごい。

国が分断され、異国となった祖国から発信される情報をきっかけに、大人達のおかしさに気づき、抵抗していく子供達の姿に勇気づけられ、涙があふれてくる。亡命したアンドレイ・タルコフスキー監督を思い出してしまい、さらに涙が…。

ユダヤ人と交流する事でヒトラーを信奉する大人達のおかしさに気づいた子供達を描いたケイト・ショートランド監督『さよなら、アドルフ』11年後の世界。2作品あわせてみたい映画。

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トウレップ〜「海獣の子供を探して」〜

渡辺歩監督『海獣の子供』の兄弟。あるいは双子の映画『トウレップ〜「海獣の子供を探して」〜』に混在する虚構と現実は山岡信貴監督の映画術により、太古の神話の世界から宇宙開発の未来まで、ひとつの世界で共鳴する。

その響きは美しく、とても妖しい。

海底に響く音楽とはこのような感覚かもしれない。


神話の世界を題材とした本作を記録映画としてみる。

太古の世界で神話が生まれた時。

そこには人々の大きな悲しみや喜びがあり「この事を後世に残したい」という思いから言葉や文字で記録した行為は現在でいう「綴り方」や「記録映画」に通じるのだから。

そして、マーシャル諸島で撮影され、新しい神話が生まれた意味は大きい。

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サクリファイス   アンドレイ・タルコフスキー監督

自分の意思で移住した地は、その昔、神に近づいた人々が町から追い払われた辺境の地。

アレクセイ・ゲルマン監督『神々のたそがれ』のあの地を思わせる。 

追い払われた原因のひとつは真実を言い当ててしまうから。

『サクリファイス』アレクサンデル達と同じ辺境の地に住むオットーはレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画がガラスの反射が邪魔になり本来の姿で鑑賞する事ができない事を訴える。

この2人の話に社会的な事情により歪められた宗教と芸術を本来の姿へと返したい思いがある事に気づかされる。

それは映画にも向けられる。

美しく響く音楽は映画との同調に別れを告げ、噛み合う事のない言葉が響き、存在しない方向へと人は話しかける。

他の文化圏の映画とは異なるカメラの動き。異なる映画が展開された時。

その「異質さ」が「神の存在」と「奇跡」を体感する重要な手掛かりになっていたりする。

『サクリファイス』の「異質さ」を思う時、アレクサンドル・ソクーロフ監督の「映画がヨーロッパではなく、中国やイランのように文化の伝統的基盤がしっかりした国に生まれていたら、異なった発展を遂げていた」(イメージフォーラム94年No.179)という話を思い出す。

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喫茶店

喫茶店の屋根裏に間借りをしていた詩人の記憶が床の影に残る。

冬の日の吐息と消えた。

いつの人生の物か定かではないのに。


部屋の床に散らばっている宛先のない手紙にも思える紙片の端は甲板に寝転がり眺めた夜空が脈をうつ。

あの夜と同じように触れてしまえば、背中を押され落とされた夜空。

13歳の頃から歳を重ねてしまう事を忘れてしまった彼の顔と身体に煙草の香りは不釣りあいだったけれど。

その香りがとても好きだった。


切手を貼る事ない手紙は、ふだんとは違う、もう1人の彼で。

遠い桜の夜の彼は誰かの体に宿りながら、みる事のない海の町へとつながっていく。

この手紙よりも満たされる事はないのに。この手紙が生まれる前に靴音が響く。


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ホットギミック ガールミーツボーイ   山戸結希監督

事の発端は中島哲也監督『渇き。』内藤瑛亮監督『ミスミソウ』における清水尋也様の陰翳の魅力にひきこまれた所から始まる。

本作はその魅力と、言葉責めによる加虐する者と被虐される者が出会い、快楽を分け合う官能の世界に夜を徹して耽溺したくなる。

相手に対して放たれる言葉と映像の編集の絶妙さに圧倒され、さらに言葉と映像の関係性が崩壊した瞬間、精神が夜の果てへと放たれる至福感と高揚感が発生する。

例えるのなら小沢健二様の『LIFE』の「ドアをノックするのは誰だ?」のあの感覚が映像言語でやってくる。

この興奮に映画をみながら何度「映画館のにいちゃん、お酒持ってきてーッ!」と心の中で叫んだ事か。しかしお酒はやってこなかったので、映画で酔っ払う事になる。

いやー、もう最高ですね!。

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カエル達の演奏が響く夜

ソファーにもたれた友達がパーカーのフードをかむり物思いにふける。

姿をみせる事のないカエル達の演奏が響く夜は5月の隠れ家の旗で彼の袖先にゆらいでいた。

簡単に出会う事ができない存在に僕は大切な事を教えてもらっている。

いつもそうだ。


少年と一緒に手作りのプラネタリウムを訪ねた夕方もそうだった。

彼が手作りのプラネタリウムで眠りについた時にみた夢は僕の肩越しの記憶で、教えてくれた帰り道は遠く離れたと思っていたのに不思議なくらい近くにきている。





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シネマ歌舞伎『鷺娘/日高川入相花王』

シネマ歌舞伎『鷺娘/日高川入相花王』。

寄り添い生きていくものと思っていたのに、それが偽りだった事に気づき、川岸で女性がよろめくその仕草に、人ではなく人形を模した動きである事に気づく。人に人形の魂が宿り始める。

人形と同衾し愛でる人の息遣いが響く世界で、人形は恋愛への妄執から姿、形を変えて、雪野原では鷺が人の姿に形を変えて、成就する事のない恋愛に悶え苦しみ始める。その、責め絵のような魅力。

歌舞伎を映画館のスクリーンでみるという事は、ふだんみている映画では難しい魔界の者と逢瀬を重ねる悦びに出会う事だった。

例えるのなら高畠華宵、伊藤彦造の美の世界が音楽と踊りでスクリーンに現れる素晴らしさ。

坂東玉三郎様の美しさとりつかれ、映画館の椅子に正座しました。

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WE ARE LITTLE ZOMBIES  長久允監督 

長久允監督『WE ARE LITTLE ZOMBIES』の中華料理屋の場面から、小津安二郎監督の映画のアヴァンギャルドの要素について指摘したペドロ・コスタ監督の話や、小津安二郎監督の映画で家族制度という幻想と闘争している人達の姿が『WE ARE LITTLE ZOMBIES』の家族制度や感情表現を画一的に押しつけられている子供達の姿と重なり始める。

失われた感情が復活していく子供達の姿に、死への憧れと隣あわせで映画を通して感情を獲得していった10代の頃を思い出してしまった。

アヴァンギャルドな映像表現には監督が好きそうな映画が見え隠れする。

僕の映画への妄想もあるかもしれないけれど、エミール・クストリッツア監督『アンダーグラウンド』、ピーター・グリーナウェイ監督『プロスペローの本』…90年代が帰ってきた。

ヒカリくんのフニャフニャした歌声が素敵でサントラが欲しくなってきた。

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幸福なラザロ   アリーチェ・ロルヴァケル監督

『夏をゆく人々』の時空を越えた演出がさらに加速するアリーチェ・ロルヴァケル監督『幸福なラザロ』の現実感を伴う幸福感と奇跡の土台にあるのは、暮らしの再現が徹底している所。

ひとつの映画が他の映画と繋がる時がある。

その土地に住む人々と暮らしをともにした記録映画の存在。 

煙草が育てられる土地については羽田澄子監督『早池峰の賦』と繋がり、『幸福なラザロ』の村の暮らしが撮影されている土地の歴史と映画の題材が同調する確かさについては、小川紳介監督、小川プロダクションの映画の視点が繋がってくる。

記録映画の視点の確かさは現実感を伴う幸福感と奇跡を生みだし、さらに映画でこそ成立する奇跡が生まれる。

聖人のようなラザロの佇まい。

聖人とは人々にとってどのような存在になのか?。

その問いかけの向こう側にあるのは、アンドレイ・タルコフスキー監督が追求した聖人像。

いまどきこんな映画が作られるのかと大泣きしました。

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